Muscadine Chronicles
当サイトはアンソロジー小説企画「マスカダインクロニクルズ」のホームページです。
眠りから目覚める間際、ユミュールの目蓋の裏にもはや見慣れた幻がよぎった。
青い空に鮮血をまき散らし、堕ちる寸前の――しかしなぜか誇らかに笑う美しい女の姿。この三十年というもの、彼を苦しえている幻だった。
とはいえ実際に目を開けてみれば、肌と鼻に感じるのはダフォディルの離島を洗う潮風ではなく、豊かな森の香りだった。彼がいるのは、サンセベリアの深い森の一角、炭焼きで生計を立てていた老夫婦の住み家――あるいは住み家であった、ところだった。
家の主たちは冬、森に引きこもっていた間に病を得て亡くなった。恐らくは先に夫が亡くなり、その死霊が残された妻を取り殺した。人を取り殺した霊は悪霊に変じ、また、殺された妻も死霊として留まっていた。山を下りない彼らを案じた親族らが春になって訪れたことで初めて悲劇が明らかになったものの、近隣のワノトギには悪霊を祓うだけの力がなく持て余していたという。そこへ彼が通りがかって、悪霊祓いを引き受けたという顛末だった。
「ワノトギ様! ご無事で……!?」
「うむ」
扉を開けるなり駆け寄ってきた中年の男に、ユミュールは重々しく頷いて見せた。コトトキとして、後にはワノトギとして。人の注目を集め、人に対して語ることが多かったゆえに身に着けた、いかにも神霊の教えを説くのに相応しい勿体ぶった語り口だ。
「悪霊は無事に滅ぼし、大地へと還した。安心して家に入り、遺品を片付け死者を悼むと良いだろう」
「ありがとうございます……!」
「奥方は私が責任を持って神殿へ送るから」
「ああ、何から何まで……」
涙ながらにユミュールの手を取って感謝の言葉を述べる、この男は亡くなった夫婦の息子だ。そして妻である女性は、義理の両親を訪ねたところで死霊に憑かれてしまっている。人ひとりに憑く霊は一度に一体のみ、だから彼女は悪霊に憑かれることなく警告に戻ることができたし、それ以上被害者が増えることはなかった。だが、それでも悪霊の棲む家を恐れて誰も近づけず、従って遺体にも遺品にも触れることができていなかったのだ。
この話を聞いたユミュールが最初にしたのは、ひとりで死者の家に立ち入って遺体を運び出すことだった。ワノトギはすでにトギを憑けているがゆえに、新たに悪霊に侵されることはないから。愛する者が亡くなって、遺体を葬ることさえできないのは辛い。それは、彼自身も良く知る思いでもあるゆえに、放っておくことはできなかったのだ。
集落へ戻る道すがら、男はちらちらとユミュールの顔色を心配そうに窺ってきた。
「あの、もうお身体はよろしいので……? 村の婆様は、悪霊祓いは生きるか死ぬかの難事だと、諦めて森を封じるしかないと――」
「……ワノトギの能力も様々だからな」
婆様、とは集落のワノトギのことだろう。彼のことを不安げに、あるいは少々憎々し気に見つめてきていた老婆のことを思い出すと、ユミュールの心は沈み、足取りもほんのわずか重いものとなった。
ワノトギの能力は千差万別だ。本人の霊力と憑いたトギの霊力の高低の組み合わせによってできることは変わってくるし、性格や授かった神霊の欠片によって向き不向きもある。……ユミュールが見たところ、あの老婆の霊力はさほど高くないように見えた。しかしそのことをはっきりと口にはしない。老婆が彼を睨んでいたのは、恐らく百年近くに渡って集落に貢献して築いてきた尊敬を損なわれるのを恐れていたのだろうから。彼女ができないと言ったことを、ユミュールはあっさりやってのけた。その結果を、集落の者の彼女を見る目が変わるのを、恐れているのだろう。
「『婆様』はシャンケル様のワノトギだろう? 草木を育むことには長けていても、戦うのには向かないのだろう」
「はあ。たしかに集落の実りはよそに比べていつも恵まれてますが……」
「ご両親を救えなかったこと、『婆様』が誰より悩んだはず。決して喜んで見捨てたわけではないはずだ」
彼のトギはごく平凡な能力だが――幸か不幸か、ユミュールはワノトギの中でも霊力が高い方だった。ワノトギになる前から霊の世界を垣間見ることもできていたし、時にナトギの導きをはっきりと感じることもあった。人々に信仰を説くコトトキとして、重々しく含蓄深げな言葉を紡ぐ術も学んでいる。ゆえに彼が人々の尊敬を得ることは非常にたやすくて、だからこそ怖くなることもある。
彼に感謝した人々は、他のワノトギに会った時にこんなことを言うかもしれない。
あのワノトギ様は、一晩で悪霊を滅ぼしてけろりとしていたのに。ナトギ様を呼んでくださったのに。どうして何もしてくださらない? 何もできないくせにワノトギなのか?
授かった力を使って民の幸福に尽くすのが自身の使命だとユミュールは信じている。彼自身については、幸せなど考えてはならない、とも。しかしその行いが弱いワノトギを追い詰めるかもしれないこと。人々の間に弱いワノトギへの不信と軽侮を招くかもしれないことをどう捉えれば良いか。彼はいまだに割り切ることができていなかった。
『お前は言葉を使うのが得意なのだから。どうにでも言いくるめれば良い』
不意に頭の中に響いた声は、彼のトギのものだった。彼が嘘を吐くのが嫌いなこと、嘘によって取り返しのつかない事態を招いたことがあって、いまだに苦しんでいることを知っていてこのようなことを言ってくる。
『本当のことを言わなかったからといって、嘘になるとは限らない』
それだけぽつりと言ってトギはまた眠ってしまって、ユミュールとしては苦笑するしかない。生前も寡黙な漁師だったが、トギになってからは一層言葉が短くて意図を汲むのが難しい。人の身体を離れた存在には何が見えて聞こえるのか、もっと教えてくれても良いと思うのに。だが、今回は彼に何らかの指針を与えてくれたものらしい。それとも他のワノトギや集落の者まで案じるのは分を越えているとでも思われたのか。
ともあれ、トギの言葉は確かに天啓を与えてくれた。要は「婆様」の体面と集落の信仰を保つことができれば良いのだ。完全な事実でなくても良い、大方が受け入れられる筋書きにしてやれば良い。
ということで、集落にたどり着くなりユミュールは満面の笑みでワノトギの老婆に駆け寄った。
「あなたのおかげで悪霊を祓うことができました!」
彼の早い帰還に驚いた集落の民たちが彼を取り囲む前に。誰かが「婆様」よりもすごいワノトギ様だ、などと言い出す前に。
「何を……あたしは……」
「ナトギ様を遣わしてくださったのはあなたでしょう? 本来この集落に立ち寄るつもりはなかったのだが。これも神霊様の導きというものでしょう」
老婆の目が泳いだが、ユミュールは目線で黙らせた。彼女の霊力を改めて見て、ナトギを使うことができない程度であろうということは分かった。だが、彼が何となく予感のようなものを得てここへ導かれたのもまた事実。それがナトギの自発的な好意――というものがあるのかどうか――なのか、老いたワノトギが遣わしたものなのか。聞かなければ彼が嘘をついたことにはならないだろう。
「なんだ、婆様、そんなこともできたのか」
「いや、その……」
「当たったりして悪かったよ。ちゃんと爺さんたちのことを考えててくれたのか」
「ああ……まあね」
彼に感謝と尊敬の言葉を向ける集落の者たちをあしらいながら、ユミュールは「婆様」と他の者たちのやり取りを耳で拾って心を痛める。やはり、彼女のワノトギとしての力は弱く、信頼を過剰に向けられることもあったのだろうか。
「死霊憑きの女性の様子は? 安定しているようならすぐにもロウレンティア神殿に向かいたいのだが」
だが、彼にできることはここまでだ。ユミュールの力を目にした者たちが今後「婆様」とどう接するのか――気が重くはあるが、だからといって悪霊を野放しにすることもできなかったのだからどうしようもない。ならばすぐに立ち去るのが良いだろう。
「はい、悪霊祓いをされている間に、言われた通りの処置をしてました。馬も用意したのですぐに出発できますが――」
「ならばもう発とう」
「そんな、せめて一晩休まれては……」
「いや。死霊に憑かれた人は今も苦しんでいるのだから急がねば。私のことならば心配はいらない」
既に悪霊を一体祓った身を案じられているのだろうが、今夜の宿を求めれば宴でもって歓待される気がした。死霊憑きの女性が心配なことに加えて、余所者がもてはやされる場にいなければならない「婆様」の不快も案じられた。
「さすがレグロ(兎)様。慈悲深いこと」
当の「婆様」の口調は、言葉とは裏腹に吐き捨てるようで恨みがましいものだったけれど。きっと、哀れまれて情けをかけられたように思ったのだろうけれど。それでも、ユミュールにはこうすることしかできなかった。
レグロ(兎)。モデロ(亀)。アデロ(蝸牛)。
ワノトギを、特に悪霊を祓う能力でもって格付けするようになったのはいつからなのだろう。悪霊を滅ぼすのに能力によってかかる日数が変わってくることにかけて、強いものを足の速い兎に、次いで亀、数日に渡って苦痛に耐えながらやっと、という者は蝸牛に喩えられる。
弱いワノトギが自嘲して、あるいは力の限界を示すために言い出したともいうし、疫病の時など多くのワノトギが集まった際に力の差があるのを知った民が自然と言い出したという説もある。いずれにしてもユミュールにとっては嘆かわしいことだ。ワノトギの力は、マスカダインの大地を見守る神霊がその欠片を人に与えたことに由来する。神霊の欠片を宿した者を、その力の大小によって区別することなどあってはならないと思うのに。
古い時代に比べて、今は信仰が歪んでいるのではないか、とユミュールなどには思えてならない。神霊がいることそれ自体に感謝して、ワノトギの存在によって神霊の存在を信じ、その力を身近に感じる。そして信仰に呼ばれてナトギが集まり、更に人の暮らしを豊かなものにする。そういった正しい循環が、最近は上手くいかなくなっているように思う。
ユミュールはコトトキであった頃から信仰をあるべき姿に戻そうと尽力している。信仰の薄い地方に赴いては神霊やナトギの恵みを説き、人々の生活に混ざって祈りを捧げることを根付かせようとしてきた。そして期せずしてワノトギになってからは――「あの」過ちを除けば、そしてそれを償うためにも――その力を正しいことに使おうと心に決めている。
だが、彼が優れたワノトギであるほど、力を使えば使うほど、人の心は彼が望むのとは違う方向に進んでいるように思えてならない。人が崇めるのは力ある、つまりは直接的に利益を得られるワノトギだけ、力の弱い蝸牛たちは侮蔑の対象となってしまう。彼らは時に人目を避けて隠遁し、あるいは力の限界を超えて酷使される。「婆様」のように居場所を得たとしても、ユミュールのような兎はそれを脅かしてしまうのだ。
人々の感謝の目も、蝸牛たちの嫉妬や羨望の眼差しも。彼のように卑小な人間には相応しくないのを、誰も知らないのだ。
集落はサンセベリアの中でもロウレンティアとの境のルームス川沿いに位置し、よって最寄りの神殿はユミュールにも馴染みの深いロウレンティアの神殿となった。死霊に憑かれた者に長距離の移動は辛いだろうが、気候の良い季節であること、集落の者が馬を貸してくれたことから旅路は概ね順調だった。
死霊に憑かれた女性を馬に乗せて、ユミュールは歩く。ワノトギを歩かせることを、女性はしきりに恐縮したが、神霊の欠片によってワノトギは常人よりも高い身体能力を持っている。死霊憑きの彼女の方こそ体力を消耗しないように努めなければ、と言い聞かせてのこの状況だった。
馬の鞍に揺られながら、女性がおずおずと口を開いた。
「あの……私に憑いているのは、義父なのでしょうか、義母なのでしょうか」
「ああ……」
霊力の低い者にとっては、死者の霊は侵された者の身体に現れる蚯蚓腫れとしてしか認識できない。死者の声を聞くことができるのは、ある程度の素養のある者に限られる。あの森の中の家には老夫婦がふたりで住んでいた。憑りついたのがそのどちらなのか、この女性には分からないのだ。
「義母(はは)上だろう。私が祓ったのは男性だったから……」
悪霊を祓う際には、死者の記憶に触れることもある。今回ならば、真冬の森の中で病に伏せって身動きが取れなくなった老人の記憶。夏の時期ならば比較的気楽に行き来していた集落も、飢えた獣がうろつく冬では遠く、外に出るのを躊躇ううちに体力も食料も尽きていった。
「そう、ですか……」
死の記憶を思い出してユミュールの声は沈み、そしてそれを聞いた女性も声を震わせ、頬に涙を伝わせた。
「可愛がってもらっていたと思っていましたし、嫁としても頑張って仕えていたつもりでした。でも、取り殺そうとするなんて。本当は嫌われていたのでしょうか」
「そんなことはない。義父(ちち)上も、あなた方のことを案じていた」
「では、どうして義父は悪霊になってしまったのですか!? 義母はどうして私に憑いたのですか!? きっと恨んでいたのでしょう、様子を見にも来ないで見捨てたと……!」
「違う!」
ユミュールは、女性がよくある誤解をしていることに気付いて声を高めた。
悪霊になる者は恨みを抱いて死んだに違いない。悪意を持っていたから、憎んでいたから生者に災いをもたらすのだ。
悪霊が出た際の被害は人命が奪われるということだけではない。あいつが悪霊になった、周囲を恨んでいたに違いない。そう思われることで人の絆が断ち切られて関係が壊されることこそが問題になることも、ユミュールはこれまで何度も見てきた。
「死者が死霊になるのは強い思いを残したからというだけだ。強い愛情も、時に死者を地上にとどめてしまうことになる。そして死者が人に憑くのは虫が光に惹かれるようなもの、決して相手を恨んでのことではないのだ」
「そうなのですか? でも……」
女性の表情が揺れた。が、にわかには信じがたいのだろうとは分かる。人は自分を責める方向に考えがちだから。近しい者が悪霊に変じたのを目の当たりにした時、あの時のあれが悪かったのでは、実は憎まれていたのではと考えてしまうのはよくあることだ。
だが、ユミュールは愛ゆえに死霊として留まった者を知っている。あの男は、愛する女性への思いゆえに悪霊になることもなく海を漂い続け、ついには再会を果たしたのだ。そしていまだに彼を苦しめ、今は悪霊と変じているであろうあの女性も。彼への怒りや憎しみもあったのだろうが、最後に残った何より強い思いは、夫への愛だけだったに違いない。
「義父上を祓った時に、私には見えたのだ。最期の瞬間に至るまで、あなた方を案じていたのが。無念さがあるとしたら、看取られることなく逝く寂しさ以上に、あなた方が感じるであろう悲しさを慮ってのことだった。義母上があなたに憑いたのも、悪霊に憑かれるのを妨げようとしたのだろう」
語り終わった後、女性はしばらく黙り込んでいた。その間にも馬は歩みを進め、初夏の新緑や水の香りが鼻に届く。
「では」
女性がまた口を開くまで、ユミュールは馬の轡(くつわ)を取りながらじっと様子を窺っていた。彼の言葉が届いたかどうか。義理の両親との思い出を、ちゃんと心の奥から掘り起こしてくれたかどうか。「婆様」の憎しみさえ感じられる目は、悪霊祓い以上に彼を疲れさせていた。せめて、この女性に霊の思いを伝えることくらいはできれば良い。
「義父も義母も、私たちを恨んでいたのではないのですね……」
女性の目から溢れた涙は、先ほどとは意味の違った、温かいものだった。死者を悼む、自然と心から溢れ出るものだった。
「そう。そうなのだ」
久しぶりに、理を説いて聞き入れられた気がして――ユミュールの胸にも、ささやかな満足感のようなものがこみ上げていた。
Veilchen/作