Muscadine Chronicles
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死霊に憑かれた女性は、幸いに無事にロウレンティア神殿にたどり着いた。人が築いた紫の壮麗な神殿に至るまでの長い階段も、さほど問題ではなかった。ワノトギが連れて来た死霊憑きとなれば、神官たちは喜んで手を貸したから。
そうしてまずは神官たちが住まう人の神殿にたどり着き、ユミュールはそこで一晩を過ごすことにした。
「ちょうど薬草が切れてしまったところだった。真なる神殿に伺う前に手当をしてあげてほしい」
「かしこまりました。ワノトギ様もごゆるりとお休みくださいませ」
紫の神殿に仕える神官は、霊力も高く人格や見識にも優れた者が選りすぐられているはずだった。だが、ユミュールがワノトギになった頃から比べると、最近はどうも信仰が捻じれてきているような気がしてならなかった。
「お連れされた方の集落で、見事に悪霊を祓われたそうですね。女性がいたく感激されておりました。さすがはレグロ(兎)のユミュール様です」
例えばこのようにワノトギを格付けして区別するような物言いをすることもそうだ。神霊を称えるために建てられた神殿にいる者が、力の多寡によってワノトギを区別し対応を変える――どうしてこれをおかしいと思わないのだろう。
冷えた水を出してくれた神官に、ユミュールは顔を顰めてみせた。
「レグロ(兎)かアデロ(蝸牛)かは関係ない。私は私にできることをしたまで。その集落ではモデロ(亀)のワノトギも民のために尽力していた」
「ご謙遜を……そのように正しきことに力を使われるお方だからこそ、ヲン=フドワ様もあなた様に欠片を委ねられたのでしょう」
「神霊様の欠片を受け取るのはトギの方だ。ワノトギはトギを通じて神霊様の御力を借りる――そのようなことも、知らないのか」
「それはもちろん、存じておりますが」
追従で彼が喜ぶと思っていたのだろうか。神官はやや面倒そうな表情をして視線を泳がせた。
「その、霊力の差だけではありませんでしょう。亀はともかく、蝸牛の中には授かった御力を使わずにこそこそと逃げ回るような連中もおりますから。そう、亀だの蝸牛だの、上手く言ったものだと思います。甲羅や殻に篭ってやり過ごす姿、まさに逃げ隠れするあの者たちそのものではありませんか?」
――神殿で安穏としておいてよく言う……!
「ならば兎は皮を剥がれ肉を取られるものなのだろうな。最近ではワノトギはいかに利用できるかで価値が決まるようだ!」
吐き捨てるように言い切ると、席を立って部屋を出る。大人気ないこととは分かっていても、亀のワノトギの「婆様」を見た後で、神官の嘲笑を聞き流すのは難しかったのだ。
「ユミュール様、お待ちを――」
大股に部屋を出たユミュールを追いかけてきた神官は、しかし、急に足を止めた彼の背中にぶつかることになった。いつもは静謐かつ荘厳な雰囲気に包まれている神殿に、微かに異臭が漂っていることに気付いて不審に思ったのだ。
「何か、血腥い臭いがするが……供物を屠ったのか?」
五体の神霊を頂く紫の神殿には、周辺の集落から絶えることなく供物がささげられる。マスカダインの果実をはじめとして、穀物や野菜や果物。それに貴重な家畜も。肝心の神霊や眷属は地上の食べ物を糧にすることはないから、供物の多くは最終的には神官など人の神殿に仕える者の口に入ることになるのだが。
だから、豚や羊などを捌くことも当然あるのだろうが――廊下にまで血臭が漂うのは常のことではないと思う。
「ああ、実は先日ちょっとした騒ぎがありまして。私どもはすっかり鼻が慣れてしまいましたが……外から来た方にはまだ臭うのですね」
「騒ぎ……?」
神聖なるマスカダイン山でいったい何が起きたのか。騒ぎ、などとさらりと口にする神官に、ユミュールは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
「――神殿の役割を何と心得ている!?」
そして嫌な予感は的中してしまった。
ナトギによって召された器候補を、人の神殿の判断で追い返した――あの神官は、その顛末をいっそ誇らしげに語ったのだ。人が建てた紫の神殿は、いかに壮麗であっても形だけのもの。神霊がおわすのは真の神殿に他ならず、神霊の営みは人知の及ぶところではないというのに。
ナトギは過ちも偽りもしない。彼らは、水の流れや風が吹くのに似ている。ただ自然のままにそうあるものであって、たまたま人にとって良いものであることもあるというだけだ。祈りや信仰を捧げるのも、いわば水路を整え土を耕すように良い結果を導くための働きかけにすぎないのだ。
霊力を高い者を集めたはずの神官たちなのに、ナトギと触れたことがないのだろうか。触れたうえで、都合の良いように解釈するようになってしまったのか。
「そう言われましても」
ユミュールに詰め寄られた神官長の顔には、はっきりと面倒だと書いてあった。何しろ彼はワノトギの中でも多少は名が知られている。下っ端の神官の態度からも窺えたように、亀や蝸牛のワノトギならばあしらうことも高圧的に振る舞うこともできただろうが、彼に対してはさすがに多少の遠慮はあろう。ユミュールがコトトキとして世界の理を思索し、人々に説いた年月は大抵の神官を上回るのだ。
「神殿で邪教の儀式を行ったような少年ですよ。まさか器になれるはずもありません」
「それを決めるのは神霊様だ。聞けばたった六歳の少年が、誰にも気づかれずに刃物を持ち出してヤギや羊の眼を抉り出したなどと信じがたい」
「ですが確かに……」
顔を顰める神官長は、子供が神殿内を好き勝手にするのを許すほど愚かな男ではなかったはずだ。だが、それはユミュールの嫌な予感を強めるばかり。
ナトギの召命を疑い、能力によってワノトギの扱いを区別する今の神殿のこと、器候補も見た目で判断しても不思議はない。神官長をはじめ、そもそも子供の器や眷属に仕えることになるのは嫌だ、おさまりが悪いというような意識が神官の間にあったのではないだろうか。
そしてそのように仮定すると、考えるもおぞましい結論にいたる。紫の神殿の者たちは、器の引継ぎを妨げたばかりか、無辜の子供にひどい濡れ衣を着せたのだ。器候補として召されたはずがそのような悪名を着せられて返された子は、故郷でどのように扱われることか。
「そもそも――」
「間違いのないことです。それは私が証言します」
更に神官長を問い詰めようとした時に、だが、涼やかな声が響いてユミュールは舌を止めさせられた。
「ヨシュア神官」
振り向けば、そこにいたのは白い神官の服を纏った背の高い男だった。顔だちも整って、世間の者が抱くであろう清廉な神官の印象そのままといったところか。ユミュールは会ったことのない者だったが、安堵したような神官長の呼びかけでその名は知れる。
「……あなたがその場を見たというのか? 子供が家畜を屠って目玉を『飾り付ける』のを黙って見守っていたと?」
「いいえ」
万が一、その有様を最後まで見届けていたのだとしたら、それはそれで趣味の悪いことだ。そう思って眉を寄せたユミュールに、ヨシュアという神官はあっさりと首を振った。
「ならばどういう――」
「私はネママイア様のワノトギです。神霊様に授かった欠片によって、過去や未来を見通すこともできるのです。無論、いつでも誰にでもするという訳ではありませんが――今回は、神殿にとっても一大事だと思いましたので」
「ネママイア様の……」
言われてユミュールは目を凝らす。物資を吟味するのではなく、霊的なものを見る時の要領で。するとヨシュアが纏う蘭の色の靄は、確かに神霊ネママイアのものだった。
――ネママイア様のワノトギ……同じ時代に会うことがあるとは。
水や火や土、風といった自然の力を扱うワノトギと比べて、人の心や時の流れに関わるネママイアのワノトギの存在は珍しい。実在しないという者さえいるほどに。だからもちろん彼が会うのも初めてだし、その力を目の当たりにしたことはなかったのだが――
――見た……本当に?
ユミュールの見たところ、ヨシュアの霊力は決して高くない。水のワノトギならば小さな器を満たすほどの水を出せるかどうか、火のワノトギならば一日一度火種を出せるかどうかといったところか。つまり、神霊の欠片から引き出せる力はごく限られている。そのような者が、都合よく件の少年の犯行現場を「見る」ことなどできるのだろうか。
限りなく相手の言葉を疑いながら、しかし、ユミュールはそれを口にすることはできなかった。ネママイアのワノトギが力を奮うのにどの程度の霊力が必要なのかが未知数だということがひとつだが、それは前提でしかない。仮にヨシュアを責めて、しかし相手が嘘を認めなかった場合、その次に発せられるであろう言葉が恐ろしいのだ。
私の力を疑うならば、あなたの過去を言い当てましょうか?
ユミュールの背を汗が伝った。同時に目蓋の裏を過ぎるのは堕ちる間際のあの女(ひと)の顔。あの記憶、あれにまつわる彼の卑劣な嘘は、誰にも決して知られたくない。兎のワノトギと呼ばれて良い気になっているつもりはないが、むしろ罪滅ぼしにもならないと思っているが、それでもあの記憶は彼の最奥の傷だった。それをこの若者に暴かれるかと思うとどのような悪霊と対峙してもついぞ湧いたことのない恐怖が彼を襲う。
だが、ヨシュアがワノトギであることを笠に嘘の証言をしているのならば、それも見過ごしてはならないこと。ユミュールは、固まりそうになる舌を叱咤して懸命に言葉を紡ごうとする。
「あなたは――」
「ヨシュアを疑うのね? でも本当よ。あの子、あたしにも乱暴を働こうとしたのよ! 汚らわしいわ!」
だが、詰問を言い切る前に、高く澄んだ少女の声がユミュールを遮った。
「ミラルディ様」
いつの間にかヨシュアの傍らに歳の頃十歳ほどの麗しい少女が寄り添っていた。菫色の髪からも明らかなように、彼女は神霊ユシャワティンの眷属だ。この場の誰よりも年長で、ユミュールも既に何度か姿を見たことはある。
神霊の眷属は、器にはならなかったものの神霊に触れたことのある存在、真の神殿で神霊の傍近くに仕える存在だ。本来ならば神霊と同様に崇め敬うべきもの――しかし、このミラルディに関しては、素直にそうできない噂が纏わりついている。
「乱暴とは、その――」
「不安でしょうから遊んであげようと声をかけたの。そしたら突然あたしの服を引きちぎったの!」
「……六歳の少年だったと聞いておりますが、そのような力が?」
噂。つまり、老若を問わず男の神官に声を掛けては淫らな行為に耽っている、という。神霊の眷属、それも幼い少女の姿をした者に対してあまりにも汚らわしい噂に、ユミュールは最初憤ったのだ。だが、無垢な存在だと信じるには、ミラルディの金色の目は成人した女のように時に艶めかしく誘うように見えることもある。変わらぬ姿で長い時を生きる眷属ならば、見た目に似つかわしくない言動をするのも当然なのだが、それでも他の眷属と違って生々しさを感じるのは気のせいか。
ユミュールとしては眷属は清らかにひたすらに神霊に仕えるものだと信じていたい。また、神官の中に眷属をそのような目で見る者がいるなどと考えるのも耐えがたいこと。だから、彼は努めてミラルディを避けようとしてきたのだが。
――よりによってこの方に対してそのようなことを……?
ちらりと神官長の方を窺えば、相手は素早く目を逸らした。その仕草でよく分かる。この男も、ミラルディの方から誘ったのだと疑っていて、さすがに言い出せないでいるのだ。
「だから、やはり何かおぞましい存在だったのでしょう。真なる神殿に立ち入らせなかったのは正しきことかと存じます」
ヨシュアは重々しい口調でもっともらしく纏めたが、ミラルディと一瞬だけ交わした視線に苦笑のようなものが混ざっているのを、ユミュールは確かに見た。同時に彼を襲うのは、雷に打たれたかのような感覚。怒りなのか驚きなのか恐怖なのかは分からないが。
――眷属とワノトギが結託している……結託して、器候補を神殿から退けさせた……!?
ヨシュアとミラルディの間に漂うのは、非常に――異様に親密な雰囲気だった。見た目では兄妹のようなのに、恋人同士のような濃密な空気を感じさせる。邪推であって欲しいという仄かな期待を討つ砕かれるほどに。
衝撃がひとまず去った後に波のように押し寄せるのは、なぜ、という疑問だった。なぜ、眷属がワノトギが理を曲げるような真似をするのか。授かった力や立場を利用して嘘を吐くのか。それでこの者たちに何の益があるのか。何一つ答えは見つからないまま、このようなことはあってはならない、という嫌悪だけが高まっていく。
「あなたがたは――」
糾弾しようとしても言葉にならず、ユミュールの口から漏れるのは空しい喘ぎだけ。そこへ、ミラルディは蕾が綻ぶように華やかに笑う。
「子供が神殿に来てもやることなんてないわ。親元に帰って水汲みでも家畜の世話でもしてれば良いのよ」
「子供。親」
呆然と繰り返すユミュールに対して更に笑うと、ミラルディはふいと男たちから顔を背けて駆け去っていった。まるで子供のような振る舞い――だが、彼女は決してそうではない。
「……その少年のためだった、と?」
真の神殿に住まう者たちの心持ちを、幼い姿のままで生きることの意味を、彼は考えたことがあっただろうか。名誉としか思っていなかったが、親元を離される幼い子は、その母は、同じように思うのだろうか。
「まさか。私どもは神殿に紛れ込んだ邪教の輩を叩き出した、それだけです」
そう言って笑うヨシュアの表情は晴れやかなものだった。その少年の人生を守ったとでも思って、悦に入っているのか。ワノトギと神官の立場を利用して、眷属まで引き込んで、上手くやったと思っているのか。確かに今回はそうなのだろうが――いつまで持つことか。余裕のある表情が、気に入らない。
「嘘はいずれ明らかになる。その時に後悔するかもしれないぞ」
「ご忠告、痛み入ります」
ヨシュアは悠然と、いっそ誇らしげに笑った。ユミュールも彼自身の後悔を詳しく語るつもりはないから無理もない。彼も――これほど自信たっぷりにではないが――、上手く取り繕えたと思ったこともあった。だが、そのような幻想はいつか砕かれる時がくる。嘘はあらたな嘘を呼んで、そしてやがて歪みが生じて露見するのだ。
ワノトギでない者には分からないと思っているならそれは大きな間違いだ。ユミュールがかつてあの女(ひと)に詰られたように。地上に生きる誰もが霊の世界に触れる機会はあり得るのだ。誰もが世の理を知って生きることは、彼が目指すところでもある。人が己の正義のために神霊を騙るのは、弱いワノトギが見下され酷使されるのと同様に間違っているはずだ。
ヨシュアにそれを言わないのは、驕った若者には通じそうにないからか。ユミュールの恥を晒すことになるからしたくないのか。あるいは単にこの青年が嫌いなのかもしれない。
ともあれ、ユミュールは表面上は礼儀正しく神官長とヨシュアに邪魔をした詫びを述べ、その場を去った。この神殿で彼ができることはおそらくもうない。ならば、彼が救える人のもとへ向かう方が良いのだろう。
兎と亀と蝸牛 2
Veilchen/作