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 傾き沈みかけた日が、デュモンド湖北端の広大な葦原の景色を赤く染めていく。

 一羽の黒い鳥影が葦の中から飛び出して、西の空へと消えていった。

 あれは死神の使いだったのかもしれないと、今になればそう思う。

 

 これから待ち受ける、悲しみを知りもせず、すでに起きた惨劇を知りもせず、俺はただ呑気に家路を急いでいたのだ。

 見慣れた故郷の景色に安堵し、俺を待っているであろうヒュンメルの笑顔を思い描きながら……。


 

     * * * * *

 

 ベセナートは、旅を終え故郷であるセンナへとたどり着いたところだった。

 センナは、ヒヤシンス神殿の沈むデュモンド湖の北に位置する大きな集落だ。

 

 今回の旅は、思っている以上に長引いてしまった。ベセナートの足は、自然と早まる。

 

 センナから北東に位置する小さい集落で死霊が悪霊と化し、ワノトギであるベセナートに討伐の依頼が来たのだ。

 死して人に取りついた死霊を放置しておけば、取りつかれた者は死に、死霊は悪霊へと変化する。

 たいていは、そうなる前に神殿へと赴き試練を受けるのだが、うまく神殿にたどり着けなかったものや、とり憑かれた人の衰弱が激しく死亡してしまった場合に、悪霊へと変化してしまう。そして悪霊に変化してしまったものは、ワノトギと、彼らとともにある精霊トギにしか討つことは出来ない。

 ワノトギというのは非常に稀な存在であったから、悪霊退治を依頼されればどんなに遠くても赴かなくてはいけない。それがワノトギとしての務めなのだった。

 

 それに今回は、悪霊を退治し帰路に着こうとしたところで、死霊憑きに出くわしてしまった。死霊憑きの男を神殿まで送り届け、ようやく故郷への帰路へ着くことが出来たのだ。

 

 ベセナートは、帰りの遅くなった彼を心配しながら待ってくれているであろうヒュンメルの笑顔を思い描く。そうすると、心の中がぽっと温かくなる。

 ずっと、幼いままだと思っていた。妹のように思っていたヒュンメルは、いつの間にか美しい女性へと成長し、ベセナートにとってかけがえのない存在へと変わっていった。

 

 二人の思いが同じだと知り、気持ちを通わせたときの喜び。

 ベセナートの腕の中で、ヒュンメルは笑みながらも静かに涙をこぼした。


 

 もうすぐだった。もうすぐヒュンメルに会えるはずだった。

 

 ベセナートは、ヒュンメルの住む、街はずれの小さな一軒家を目指した。


 

 ベセナートはヒュンメルの家の前まで来ると、その扉をノックする。

 ヒュンメルは父と母と三人で、この街はずれの小屋で暮らしている。

 空はもう赤みが薄れ、濃い紫色へと変化していた。

 

 中からの応《いら》えはなく、不審に思ったベセナートは静かに戸を開ける。

 キイッ……!

 思った以上に大きな音が部屋に響いた。

 暗い室内にベセナートは眉をひそめる。

 父親が仕事で不在なことはあっても、たいてい母親かヒュンメルはうちにいて、温かい明かりをともしているはずだった。

 誰もいないのだろうか?

 

「……ただいま……」

 

 ベセナートは部屋の中に声をかけてみる。

 

 奥の部屋へ続く扉がゆっくりと開いた。

 

「ベセナート……!」

 

 そこから顔を出したヒュンメルの母親は、ベセナートに走り寄ると、縋り付く。崩れそうになるのを腕で支えてやる。

 ベセナートは困惑し、彼女の背をさすりながらどうしたんです? と、声をかけた。

 

「ベセナート……ああ、ベセナート。ヒュンメルが……」

「おかあさん……ヒュンメルに何か……?」

 

 問いかけに答えることも出来ずに、母親はついに声を上げ、ベセナートの前で泣き崩れた。


 

     * * * * *

 

 べセナートはセンナの里長の屋敷の前に立っていた。

 里長の家は、センナの集落の中でも一番に大きな屋敷だった。

 玄関の扉も、大きく重々しい。扉についた、丸いノッカーを使って来訪を告げる。

 今この段になってもベセナートは信じられない気持ちでいる。

 

 なぜ俺は今、長の屋敷の前に立っているのか? いったいこの扉を開けて、何をしようというのか?

 何もかもが夢の中のようにだと感じた。

 

 暫くすると、扉が開けられる。

 見知った顔の女中が顔を出し、べセナートを認めると彼女は笑顔を見せた。

 

 ほら、何も変わったところはない。何も変わらず、時間は流れているじゃあないか。きっと、ヒュンメルの家での出来事が幻だったのだ。今からでも、あの家にとって帰せば、愛しいヒュンメルが俺の帰りを待っているのではないか?

 

 ベセナートは今すぐにも暇《いとま》を告げたい気持ちになったが、顔を出した女中が「まあ、旅を終えられたのですね? 入ってお待ちになって、今主に伝えてまいりますわ」と、彼を家の中へと案内するので、その機会を失ってしまう。

 夜の帳がおり、室内は幾分肌寒かったが、暖炉に火を入れるにはまだ早い時期だった。

 

 通された客間で、ただ真っ直ぐに直立したまま、べセナートはこの家の主を待っていた。

 勢いよくドアが開いて、赤ら顔に満面の笑みを浮かべた里長が入室してくる。

 

「ベセナート! 悪霊退治は終わったのかい? いやいや、お疲れ様だったね。いつ帰ったのかい?……今? それは疲れたろう。良かったら夕飯を食べて行かないか」

 

 いいえ、とベセナートはそれを辞退する。

 そうかと里長はうなづく。

 ――――聞かなければならない。俺はそのためにここを訪れたのだから。

 

「長、ビアーゼに会いたいのですが……」

「ビアーゼ?」

 

 里長は、驚いたような顔をする。

 

「ビアーゼ? 息子かね?」

「ええ、そうです。彼にききたいことがあるんです」

 

 長はそれまでの笑顔を渋面に変える。

 

「ビアーゼにも困ったものだ……このところ、町の良くない連中とつるんで家にもあまり帰らないのだよ」

「では今も?」

「うむ。デュモンド湖畔の倉庫に友人たちと集まってはよからぬことをしているという話もあって、私もこの状態が続くようなら、手を打たねばならぬと思っていたところなんだ……」

 

 長の話に、ベセナートの頭の中で警鐘が鳴り始める。

 

「今日も……?」

 

 長は困ったように頭を振ってみせる。

 

「失礼します……」

 

 ベセナートは何かにせかされるように長の家を出て行った。引き止めるような声が背後からかかったが、もうその言葉を聞いてはいなかった。

 お茶をのせたワゴンを運んできた女中と廊下ですれ違い、何か声をかけられたが、それに返事をすることも無く家を出ていく。

 

 胸の奥から嫌な予感が湧き上がる。



 

 慌てたように出ていくべセナートを、女中は首をひねりながら不思議そうに見送った。


 

     * * * * *

 

「ベセナート。ヒュンメルが返ってこないんだよ。うちの人は、今ヒュンメルを探しに出ているんだけどね。……ヒュンメルにもしものことがあったら……!」

 

 ヒュンメルの母は旅から帰ったばかりのべセナートに掴みかからんばかりの勢いで話し出した。

 

「お母さん落ち着いて、落ち着いてください……どうしたって言うんです。ヒュンメルだって、子どもじゃないんですから、大丈夫ですよ」

「何言ってるんだい、べセナート! 子どもじゃないから危ないんだよ! わたしゃ、嫌な予感がこのところずっとしてたんだよ。この間も長の息子のビアーゼとその仲間に、どこぞに連れ込まれそうになったって……町の人が通りかかって助けて下すったのさ……」

「……? なんですって?」

 

 べセナートは、すぐに母親の言葉を理解することが出来なかった。

 

「ヒュンメルは、今度あんなことされそうになったら、はっきりおまえなんか嫌いだって言ってやるって言ってたよ。実害がある様なら町の長に相談するつもりでいた矢先さ……」


 

 その話を聞いた途端にビアーゼを襲った暗い予感。

 ヒュンメルの母をおいて、真っ直ぐに長の屋敷へ向かったものの、当のビアーゼの不在。

 悪夢のような疑念は、次第に現実味を帯びてくる。


 

 センナに帰り着いたとき、紅花のように赤く染まっていた空は、もうすっぽりと星空を散らした闇に包まれている。

 あれほど煌めく星があるというのに、ベセナートの踏みしめる埃っぽい田舎道は、暗い。

 

 長の所有するデュモンド湖畔の倉庫へとたどり着くと、窓から明かりが漏れているのが見える。

 

 ――――ヒュンメル!

 

 ベセナートは祈るような気持ちで建物に近づき、そっと窓から中の様子を伺った。

     * * * * *
 

「俺のせいじゃねえよ!」

 長の息子、ビアーゼの声がした。彼は背を丸めて椅子に座り、いらだたしげに足をゆすりながら怒鳴っている。

 

「ああ、わかってるって。気にすんなよ」

 

 数人の仲間が彼の背を叩きながら笑う。

 

「あの女が勝手に飛び降りやがったのさ」

「そうそう、ちょっと美人だからってお高くとまりやがって、あのトギ持ちとできてやがるくせにさ」

「あれかぁ? あんなおっさんのどこがいいんだかな。ビアーゼが嫁にもらってやるって言ってるのによぉ」

「しかもあのワノトギについてるトギってヒュンメルの兄貴だったんだろう? 近親相姦じゃねえのー?」 

 

 ぎゃはははは、とけたたましい笑い声。

 ビアーゼはいらいらとした様子でテーブルの上の酒をのどに流し込む。

 

「今回のことだって、あの女が煽ったのさ」

「俺たちは、ちょっと酒の相手でもしてもらおうと声をかけただけなのによ」

「びびって私にさわらないで! なんてむきになるからよお」

 

 ふと室内が静かになった。

 

「でもよかったじゃねえか、死ぬ前に味見くらいは出来たんだからさ」

「自分から飛び降りてくれて、こちとら助かったってもんさ……なあ!」

「だよな……だよな?」

 胸糞の悪くなる会話の続く室内を、ベセナートはただただ眺めていた。

 思考が停止して、何も考えられない状態がしばらく続いた。……が、さわ、と葦原を渡ってきた冷たい風が彼の頬を撫でて、はっと正気に返る。

「トギ……おれのトギ……なあ、フキオス」

『……』

 

 返事はなかったが、己の中のトギが覚醒するのをべセナートは感じた。

 

「聞いているか、フキオス」

『懐かしい……名だ。かつてそんな名で呼ばれたこともあった……』

「たかだか九年前の話だよ、お前が俺に取りついて、俺がワノトギとなったのは」

 

 ヒュンメルの兄であるフキオスは、九年前に流行病で死んだ。親友であったべセナートに死霊となってとり憑き、二人はヒヤシンス神殿で試練を受けて、トギとワノトギになった。

 

「ヒュンメルはもう、この世にはいないのか?」

『……いない。ヒュンメルはもう、この世にはいない』

 

 べセナートは数歩よろけ、ぐっと拳を握り込んだ。

 

『なにを、するつもりです……』

 

 トギの問いかけに、ベセトーナからの返事はなかった。

 ワノトギは、トギの力を使うことが出来る。

 だが、悪しきことにそれを使った時、ワノトギは次第に弱まり、ついには死に至るといわれている。

 死んだワノトギはトギの力をも自分の中に取り込み強力な悪霊となる。

 

「なあトギ、悪しきことって言うのはなんだ?」

 

 べセナートは天を見上げる。

 

「俺にはよくわからないんだ……」

 

 星の光は遠すぎて、どんなにこの手を伸ばしてみても、触れることすらできない。

 満点の星空を見上げるべセナートの体が青く光り出した。

 まるで渦を巻くように光がベセナートの全身を包み、その身から立ち上る。

 

 ワノトギといえども、トギの強大な力を使えばその体に強い影響が残る。あまりに強い力の放出はワノトギの生命にもかかわる。

 

「力を貸してくれ、トギ!……いや、フキオス!」

『まさか、ベセナート……』

 

 トギの声に、わずかな焦りの色がにじんだ。

 

「おまえも愛していたはずだ、妹を、ヒュンメルを!」

 

 渦巻いた青い光がベセナートの全身から天に向かって迸り出た。光は湖面を走る。

 と、突然湖面からいくつもの筋が立ち上り、いくつかの巨大な竜巻となっていった。竜巻は湖面を舐めるように岸に近づいてくる。

 水しぶきが舞い、強風がたたきつける。

 突然の異変に小屋の中の男たちもきょろきょろと辺りを見回す。

 が、男たちが竜巻の存在に気付く間もなく、天から伸びるもっとも太い渦が湖面から這い出し、葦の原を抜け、湖畔にたたずむ倉庫の上を行軍していった。

 

 ベセナートはガクリとその場に膝をつく。

 

 ––––悪しきことにその力を使ったワノトギは死に至り、トギを吸収し悪霊となる。

 

 べセナートの身体から、黒い靄が広がった。その靄はべセナートを包んでいた青い光を飲み込んでいく。

 べセナートの人としての最後の思考の中に、夕暮れの葦原から飛び出した一羽の黒い鳥の姿がよぎった。

 ああそうだ、あれは死神の使いだったのかもしれない。俺自身を捕えに来たのだ。

 俺を、死神の眷属となさんがために。

 渦巻く靄は仄暗く青い一羽の巨大な鳥の影となった。

 大きな翼を広げ、デュモンド湖の上を滑空し、水を巻き上げ、天へと上る。

 

「うおあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 ベセナートは、軋む声を上げた。

 その声は、最後に発した人の声であったか、すでに人ではない何かの雄叫びであったのか。

 目を開けることもままならないほどの雨と風。

 湖水を巻き上げ天へと上るくつもの竜巻が、センナの町を襲っていた。

 大量の飛沫を含んだ破壊的な暴風にさらされ、あっけなく飲み込まれていく町。

 黒い鳥影は、歓喜に震える。

 

 もうすでに、自分がなぜ喜んでいるのかさえも分からぬのだが。

 すべてを飲み尽くすのだ。この、暗い渦の中に。

 何もかもなくなってしまえば……そうすれば……。

 一筋残っていた感覚が途切れ、ベセナートの意識は消滅した。

 

 <END>

観月/作

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