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 どこをどう歩いたのか、もうすっかりわからなくなっていた。霊峰マスカダイン山を有する山脈から吹き降ろす風が作り上げた砂の迷宮……ゾンル砂漠でさまよい始めてから、二日目であることは間違いない。舞い上がる砂煙から鼻と口を守るための布を緩めて、ナギニーユは暑い息を吐いた。本来なら小さなロバに引かせる為の二輪の荷車を、自力で引いてここまで歩いてきた。荷車が傾かないよう固定して、皮袋から貪るように水を飲む。水も残り少ないし、そろそろ腐るかもしれない……溜息を堪えて荷車を振り返る。

 

「トラ……水」

 

 荷車にぐったりと横たわっている友人、トラカトルの口元に皮袋を傾ける。すっかり温くなった水を、喘ぐようにしてトラカトルは飲んだ。うっすらと開いた目の下には真っ黒なくまが浮かび、それは頬にまでかかっている。

 

「もう、いいよナギ……帰ろう」

 

 トラカトルは諦めたように呻いた。トラカトルはゾンル砂漠の南にある港町、レンフィーの孤児だ。ナギニーユはその港町からはるか西、ナクマルス島の漁師の息子である。塩漬けにした魚を売りにトラカトルの住む港町レンフィーに訪れるうち、トラカトルと顔なじみになった。体格差もあるし性格もまるで違うのに、二人は何故だか妙にウマがあった。狭い島に暮らしているナギニーユにとって、トラカトルは大切な友人になっていった。

 三日前、久々に会えると楽しみに訪ねたトラカトルは、死霊に憑かれてぐったりと横たわっていた。死霊に憑かれたものは数ヶ月から一年、長くても数年のうちには徐々に弱っていって亡くなる。だが、孤児であるトラカトルは、誰にも世話されず薬草も使ってもらえなかった為、ナギニーユが見つけたときにはかなり状態が悪くなっていた。助けるには一刻も早く神殿にいる神霊に会い、試練を受けさせるしかない。「もう間に合わない」「神霊チム=レサは居ない」と仲間たちが止めるのも聞かず、ナギニーユは神霊チム=レサのおわすダフォディル神殿があるゾンル砂漠に入ったのだった。

 

「よくねえよ、もうちょっとだから頑張れって」

「……居ないんだよ。チム=レサ様は……俺は……もう……」

 

 途中まで言うと、トラカトルは目を瞑ってぐったりとしたまま動かなくなった。二人は共に一五歳。だが、漁で鍛えたがっちりとした体つきのナギニーユとは対照的に、トラカトルは体が小さく華奢である。荷車にベタリと貼りついているような薄い体は、ピクリとも動かなくなった。

 

「トラ! しっかりしろ!」

 

 ナギニーユの呼びかけにトラカトルは薄っすらと目を開いた。その視点は合わず、ぐるりと黒目が動いて再び目を閉じた。ナギニーユはトラカトルの足を包んでいる履物をそっとめくる。男のものとは思えないほど細い足には何本もの線状の腫れ走り、一部は破けて血を流し膿みはじめていた。

 

「ちくしょう! 本当にいねえのかよ! 神殿どこだよ!」

 

 ナギニーユはイライラと叫びながら荷車の支えを外して、重い荷車を引いて闇雲に歩き出す。神霊は器と呼ばれる人間を依り代に、人の目には見えない神殿に住んでいる。器とはいえ人間である限りいずれは死ぬ。普通はその前に新しい器に乗り換えるのだが、神霊チム=レサの器は次の器を選ばずに身罷った。ダフォディル神殿はもう何十年もの間もぬけの殻だという。それでも今はそれに縋るしかない。遠い他の神殿に行くにはトラカトルの状態は悪すぎだった。

 

「チム=レサ様! どこですか! 助けてください、助けて」

 

 足がもつれて転びそうになったところで、ナギニーユの目は小高くなった砂丘の向こうにかすかな建造物を捉えた。

 

「あ……あった! あったぞトラ!」

 

 ナギニーユは疲れも忘れて必死に荷車を引いた。やがて朽ち果て崩れ落ちかけた石の柱が何本も立つ場所へとたどり着く。

 

「助けてください。チム=レサ様! トラを助けて!」

 

 ナギニーユはぐったりとしたトラカトルを抱きかかえて跪き、懸命に懇願した。だが、砂地には風がびょうびびょうと鳴るばかりで何の返事もない。呻くトラカトルの声が聞こえて、ナギニーユは慌てて口元に耳を近づけた。

 

「ナギ……逃げろ……俺が死ねば……俺に憑いてるこのクソヤロウが悪霊になっちまう」

「大丈夫だ。大丈夫だから」

 

 ナギニーユの目からぽとりと涙が落ちる。それが見えたのかトラカトルの口元が少し緩む。

 

「ごめんなあ……ありがとうナギ……」

 

 トラカトルは大きく息を吸い込んで、深く深く吐き出す。ナギニーユは慌てて水を口に含ませた。再び大きく息を吸うと、再び吸うことのない長い息を吐いた。

 

「トラカトル! 逝くな!」

 

 叫びも虚しく、トラカトルの体から白い靄が立ち上り天に向かって昇り始めた。普段は霊力には縁のないナギニーユだが、ここが霊地であり親友の霊だったことでそれが見えたのだろう。マスカダインに還るトラカトルの魂を見つめながら最後の別れを告げようとした途端、トラカトルの体から先ほどの白い靄とは全く異質の真っ黒な靄が噴出した。

 

「うわあ!」

 

 その勢いに大きな体のナギニーユが吹き飛ばされる。黒い靄はトラカトルの体の上でしばらくうねっていたかと思うと、ナギニーユに向かってゆっくりと移動を始めた。

 

 ――これがトラカトルに取り付いてた死霊……やっぱり悪霊になりやがった!

 

 体を石畳に強く打ちつけたナギニーユは起き上がることが出来ず、必死で這って逃げた。だが、あっという間に追いつかれてしまう。

 

「来るな!」

 

 叫んでみても黒い靄はどんどん近づいてくる。もうダメだ、と目を閉じた瞬間に凄まじい痛みが腕に走った。恐る恐る目を開けると、悪霊は目の前でナギニーユに触れようとして触れられぬというように悔しそうにうねっている。ズキン! と再び腕に痛みが走る。袖をめくってみると、そこには見覚えのあるミミズ腫れが何本も走っていた。

 

 ――トラカトル

 

 トラカトルの魂が、死霊となって自分に憑いたのだとナギニーユにはわかった。そのおかげなのか……悪霊はナギニーユを襲いかねている。ナギニーユが困惑している間も、悪霊はナギニーユの前でぐにゃぐにゃとうねり続けていた。その姿はまるで獲物を横取りされた獣のようだった。

 

「トラカトル……俺、お前に殺されたりしない、お前を悪霊にしたりしないからな」

 

 ナギニーユはゆっくりと荷車に戻り、トラカトルに使うために準備していた薬草を腕にかける。ビリビリとした痛みが少し和らいだ。ここから生き延びて……神殿に行って……試練を受けて……生きるのだ。じわじわと近づこうとする悪霊を目で制しながら、ゆっくりと後ろ向きに荷車を押す。水と食料を失って砂漠で生きることはできない。

 

「ルシオ、ここだ」

 

 突然、ぶっきらぼうな男の声が響いた。何事かと振り返る間もなく、背中を何者かの手に支えられた。

 

「よく頑張ったな。俺はアマランスのイオ、もう大丈夫だ」

 

 その声に何故だかとても安心して、ナギニーユはゆっくり意識を手放した。

 

     * * * * *

 

 イオは倒れてくる少年の体を受け止めて、そっと荷車に横たえると立ちあがった。

 

「さあて……って……ちょっと待てよ! ルシオ!」

 

 イオの長年の連れであるルシオが、ゆっくりと目を閉じる。その周りを青い光がくるくると回り、それを中心に広がる靄がルシオを包んだ。靄は少しずつルシオの体に吸収され、最後に青い光が胸に飛び込んだ。ルシオはゆっくりと目を開き、ぱちぱちと二三度瞬きをした。

 

「ああーだっるい」

 

 いつも無表情なルシオが人が変わったように不貞腐れて言った。

 

「俺のワノトギはなんで俺にばっかこれをやらせんの? お前はなんでやらねえの? だるいから早くしろよ、もう」

 

 イオをお前呼ばわりしてルシオは続けざまに文句を言う。イオはルシオを睨みつけた、

 

「ルシオのトギ、本当にお前はムカつくな。お前と波長が合わなくてよかったよ。普段からお前の声が聞こえたらうんざりだ。だからルシオは無口なんだろ? あ?」

 

 イオとルシオはワノトギである。二人とも若い頃に死霊に憑かれ、イオは火を司る神霊イオヴェズ、ルシオは水を司る心霊フラサオから、それぞれ神霊の欠片を賜った。二人に憑いた死霊はマスカダインに還ることなく、神霊の力の片鱗を行使できる精霊トギとなったのだ。そして、トギが憑いている人間のことをワノトギと呼んだ。

 

「いいから早くしろって。ルシオがぶっ倒れるぞー」

 

 ルシオのトギがルシオの声のはずなのに、とてもそうは思えない言い方でイオを急かす。悪霊を滅する方法はひとつ。ワノトギの体にトギを乗り移らせ、そこに悪霊を取り込むのだ。そしてトギに含まれる神霊の欠片で悪霊を滅する。

 それをするために今、ルシオはトギに体を明け渡しているのだった。だが、それには非常に多くの霊力を使う。長時間に渡れば死ぬこともあったし、悪霊の力のほうが強ければ欠片を媒体として悪霊に取り込まれてしまう。イオはルシオのトギに指示されることにうんざりしながらも「急がなくてはな」と頷いた。

 

「さて、じゃあいくか。起きてくれトギ」

 

 イオが呼んだ瞬間、イオの周りをくるくると赤い光が回り右手で止まった。ボウ、と音を立ててそこから炎が上がる。悪霊がたじろいでもそもそと後退した。

 

「逃がすかよ! トギ、頼む」

『任せて、ワノトギ。ずっと休んでいたから絶好調』

 

 イオの好戦的なトギが戦えることを喜んで嬉しそうに言うと、イオの腕から炎が飛び出して悪霊を取り囲んだ。徐々にその輪が狭くなり、悪霊がギュギュギュという耳障りの悪い悲鳴を上げ、黒い靄が少しずつ小さくなっていく。

 

「あーあー、もうやだなー、でもやんなきゃなあ」

 

 トギにのっとられたルシオが、だらだらと悪霊に近づく。はあ、と息を吐くとすう、と大きく息を吸い込んだ。そんなに深く吸い込んだわけではない。だが、悪霊がじりじりと吸い寄せられ、ルシオの体に吸い込まれる。ルシオの体の回りで白い靄と黒い靄が渦巻き、それは段々と混じって灰色になった。ゆっくりとゆっくりとそれは色をなくし、やがて真っ白になる。

 

「終わったよお」

 

 ルシオのトギが言うと同時に青い光がルシオの胸から飛び出す。それと同時にルシオはがっくりと膝を折った。そのままずるずると横たわる。

 

「……おい、このでっかい坊主と、でっかいお前を俺一人でどうしろって言うんだよ!!」

 

 イオは赤みがかった茶色い髪をガシガシと掻き毟った。

 

     * * * * *

 

 声が聞こえた気がして、ナギニーユはそっと目を開けた。見たこともないような白く輝く天井が目に飛び込んできて、起き上がろうとすると右腕がズキン、と痛んだ。

 

「起きたのか」

 

 聞き覚えのある声だった。ナギニーユは記憶を辿る。

 

「イオ……アマランスのイオさん」

「それだけしっかりしてりゃあ、しばらくは大丈夫だな。お前の名前は?」

「ナギ……ナギニーユです」

 

 イオはくしゃ、と子供のような顔で笑った。初めて会う人なのに何故か懐かしいような気すらして、ナギニーユは一瞬で心を許してしまった自分に驚いた。

 

「イオネツだ。こっちは連れのハルッシオ、ルシオでいい」

 

 ナギニーユが目を向けるとルシオは黙って頷いた。

 

「ここは?」

「ダフォディル神殿の中」

「えっ!」

 

 ナギニーユはがばっと起き上がり、周りを見渡した。硬質の見たこともない素材で出来ている床に絹の布団が敷かれて、その上に寝かされていることに気がついた。広く四角い部屋は見事に片づけられていて、黒い柱の目立つ金色の壁が天井の白い光を反射している。ナギニーユの目はイオとルシオ以外の二人の男女を捉えた。

 

「こんにちわ、ナギニーユ。私はツワタユン。神霊チム=レサ様の眷属です」

「私はツワタヤ。同じく神霊チム=レサ様の眷属」

 

 こんなにも美しい金髪があるのか、と思えるほどの美しい金髪と金色の目をした二人は、男女であることを除いて瓜二つの顔をしていた。

 

「トラカトルは残念でした。ですがチム=レサ様がいらっしゃっても手遅れだったでしょう」

 

 ツワタユンが申し訳なさそうに目を伏せる。

 

「私たちが器になれればよかったのですけれど……。今も必死で器を探しているのですが」

 

 ツワタヤも同じく視線を下げた。霊力が高く、心が美しいものが神霊の器になることができる。だが、神霊をおろしても定着することができずに短期間で離れてしまった者は、人に戻れず神霊の眷族として神殿で生きるのだ、とナギニーユは聞いたことがあった。

 

「……いえ」

 

 ナギニーユは言葉を飲み込む。彼らを責めるのは筋が違う。

 

「イオとルシオが通りかかってくれて本当に良かった」

「目覚めたのならもうお行きなさい。ここは霊力が強すぎる。あなたたちは長く留まらないほうがいい」

 

 そういうと、す、とツワタヤが腕を上げた。

 

「しっかりと生きなさい、チム=レサのいとし子たちよ」

 

 ツワタユンの言葉を遠くに聞きながら、ナギニーユは激しい眩暈に目を閉じた。直後、鋭い寒さを感じて目を開ける。そこは朽ち果てたダフォディル神殿だった。白い息が長く伸びる。イオは自分たちの背負っていた荷物をナギニーユの荷車に載せ、水の入った皮袋を投げて寄越した。

 

 ――温かい

 

 驚くより喜びが強く、ナギニーユは夢中で飲んだ。何故かルシオの口元が微笑んでいる。

 

「荷車に乗れ、明け方まで移動だ、暑くなったら休憩しつつ飯にする」

「あの、トラカトルは……」

「埋葬した。抜け殻に執着するな」

「……はい。いろいろとありがとうございます」

 

 それは自分にトラカトルが憑いているからか? という質問をナギニーユは飲み込んだ。お礼を言っていないことに気がついたのだ。ナギニーユが荷車に乗るのを手伝い、イオは荷車を持ち上げて引く。ルシオは後ろから押してくれていた。ナギニーユは申し訳なさに縮こまる。

 

「あの、俺歩けますけど」

「いいんだよ。いいか、不安になるな。俺たちが必ず助けてやる。申し訳ないと思う必要もない。負の感情は死霊の状態を悪くするからな?」

「はい」

「お前は丈夫そうだし、死霊の状態はこれ以上ないくらいいい。悪霊になりかけてたり自分が誰なのか忘れちまってるようなやつじゃないからな。上手くやれば数年は持つ」

 

 イオはナギニーユを安心させようとしてくれているのだろう。ナギニーユは感謝を込めて頷いた。

 

「レンフィーに死霊憑きがいると聞いて来たんだがダフォディル神殿に寄って良かったよ。レンフィーから舟でロウレンティアに向かおう。陸路より早いからな。そこで試練を受ければ普通の生活に戻れる」

「……あの、俺、金が」

 

 ナギニーユはしがない漁師の息子だ。家も舟も全財産はたいたってロウレンティアへの船代など払えるはずもない。

 

「心配するな。ワノトギ様に金を払わせる船主はいねえよ」

 

 イオは人懐こい笑顔で笑う。二人を信じてついていけば大丈夫な気がした。そして死霊を払うことができたら、二人の為に自分に出来る精一杯のことをするのだ。

 

「よろしくお願いします。俺、頑張ります」

「おう」

 

 広大な砂漠を朝日が真っ赤に染め始めた。

ナギニーユとトラカトル

タカノケイ/作

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