Muscadine Chronicles
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春の穏やかな陽気が野山を若葉色に染め上げている。マスカダイン島の東、肥沃な大地に恵まれたサンセベリア地方では春の草花が競うように咲き誇っていた。これからやって来る色鮮やかな夏、そして深い実りの秋に心を馳せる人々。サンセベリアに恵みをもたらす神霊シャンケルを慕う温かい霊気が辺り一面に満ちているようだった。一人で春の野草を詰みに出掛けていたスーリネは十五になったばかりの少女らしいふっくらとした顔を上げる。腕にかけている籠には何種類もの野草が一杯に入れられていた。
――セリュン高原に、神霊シャンケル様がいらっしゃるおかげだろう
スーリネはそっと籠を置いて目を閉じる。大きく腕を開いて流れている霊気を全身で受け止めた。昔からスーリネは霊力が強かった。人には見えないものが見えたし、時には声を聞くことも出来た。周囲にさすがは神霊シャンケル様の器――実体を持たない神霊の依り代になる贄――を出した家の子供だと言われ続けてきた。
「誰?」
スーリネは誰かに呼ばれたような気がして振り返った。そこには誰も居なかったのだが、ふいに「いかなくてはいけない」という感情に支配され、籠を拾い上げて歩き出した。草原を抜け、二十歩も進んだら方向を見失いそうな深い森の中へとスーリネは入り込んだ。どのくらい歩いたのか、ぞっと足元から這い登る嫌な気配を感じて立ち止まる。その足先に何かがこつん、と当たった。
「きゃあああ」
スーリネは我に返って悲鳴を上げた。そこには白い骨が散乱しており、スーリネの足が蹴ったのはこの地方でよく履かれている女性用の木靴だった。そして、その靴に付けられた模様にスーリネは見覚えがあった。
「お姉ちゃんの靴……」
拾おうと手を伸ばすと木靴から灰色の靄のようなものが立ち上った。その靄が指に触れた途端にスーリネはすさまじい寒気に襲われ全身に粟が立った。本能が「これは悪いものだ」とスーリネに知らせる。慌てて手を引いたが、靄はスーリネの腕に絡みついた。悲鳴を堪えて走り出し木々の間を闇雲に走って草原に出た。
「あっ」
小石に躓きうつ伏せに倒れ、手から放り出された籠から野草が飛び散った。
「助けて……母さん、母さん!」
靄が、恐怖と痛みで動けなくなった体を包み込む。スーリネはそのまま意識を失った。
* * * * *
――さすがはスーリネ。偶然にも商隊が通りかかるとは……
――心配しなさんなスルヴァリ。なんてったってこの子の叔母様はあのセシェラ様なんだ
スルヴァリ……母の名を遠くに聞いて、スーリネの意識がわずかに覚醒した。
「スーリネ!」
重い瞼を上げたら心底心配している母の顔が見えて、スーリネは安心させようとなんとか笑顔を作った。母の隣から父が険しい顔を覗かせる。
「スーリネ、わかるかい?」
スーリネは父に向かってこっくりと頷いた。恐る恐る布団の上に出されている自分の腕に目をやる。腕に巻きついた靄は消えていなかった。白い腕にはたくさんの赤いミミズ腫れが走り、薬草の茶色い汁が塗られている。
「……わたし、死霊に憑かれたのね」
「大丈夫だ、スーリネ。お前は霊力が強い。きっとシャンケル様が助けてくださる」
「そうだよ、なんてたってこの家はシャンケル様の今代の器が生まれた家なんだから」
弱々しいスーリネの声に、集まっていた近所の男や叔母が口々に語る。
「そうだよ、お前は姉のセルシィとは違う」
どこからか聞こえたその声を聞いて、スーリネは我に返って母の顔をしっかりと見つめ、無事な手で袖を掴んだ。
「母さん! お姉ちゃんが居たの。草原の西の森の中に! 森の……中……で……」
なんだって……まさか……と周囲の大人たちがざわめいた。眉を顰め、顔を歪める大人たちを見てスーリネの声は宙に消えた。父は俯き、母は、ああ、と両手で顔を覆う。痛いような沈黙が木造で居心地がいいと評価される家の空気を重く淀ませる。
「……まさか。ナトギ様の恩恵も受けられなかった上に、死霊になって妹に憑いたと?」
沈黙を破った集落の男の呟きを聞いて、スーリネは横になったままそっと目を伏せた。スーリネの姉、セルシィが草原に野草を取りに行って戻らなかったのは三年前の春だった。
サンセベリアでは神霊シャンケルへの信仰心がとても篤い。そのため神霊シャンケルはもちろん自然精霊であるナトギも強い力を持ち、よく人を助けてくれる。だから、スーリネの姉セルシィは最も恩恵の深いセリュン高原で迷ったのにナトギ様に助けていただけなかった少女……として皆に蔑まれた。
(妹は稀に見るほど霊力が高いのに……)
(森で何をしていたものやら……)
(男と逃げたのかもしれないね)
穏やかで優しいと評判だった姉の名誉は地に堕ちた。
「……ちがう、これは姉さんじゃない。わたしにはわかります」
スーリネは細い声で嘘をついた。大好きだった姉、だからこそ、本当はこの死霊が姉であるとスーリネには痛いほど分かっていた。ズキン! と腕が痛んだ。どうやら皮膚が裂けたようだ。生温い感覚が腕を伝うのがわかる。スーリネは姉の名誉の為に口を結んで悲鳴を堪えた。
――お姉ちゃん、嘘をついたから怒っているの?
「もう……娘を休ませてやっておくれ……」
静まり返った空間で、スーリネの母、スルヴァリが疲れ果てた声を絞り出す。疑うようにスーリネの腕を見ていた集落の人々も、何かから解放されたように頷いて家を出て行った。父が皆に礼を言いながらその後に続き出てゆく。母子二人だけになった部屋の中でスルヴァリはそっとスーリネの額、頭、頬……と撫でていった。
「スー、わたしの可愛いスーや」
「なあに、母さん」
「……それは、セルシィなのかい?」
腫れあがった腕を見つめながら聞くスルヴァリにどう答えていいかわからずにスーリネは大きく目を瞠る。
「……やっぱりそうなんだね。ああ、わたしの可愛いシィ」
母は醜く血を流すスーリネの腕をいとおしそうに見つめて、そっと手をかざす。靄が少し薄くなって痛みが引いていった。母にはこの灰色の靄は見えていない。見えるのはスーリネ一家の住む小さなファキルの集落の中ではスーリネを入れても数人だけだろう。
「……あれ……痛くなくなった」
スーリネが言うと、スルヴァリは堪えきれずに嗚咽を漏らす。
「許しておくれスーリネ。あの子を許しておくれ」
「もちろんだわ。わたし、姉さんが大好きだもの」
再び腕が裂けるように痛み、スーリネは思わず小さな悲鳴を上げる。
「ああ……いい子だ、可愛いシィ。母さんの宝物。どうかスーを苦しめないでおくれ」
スルヴァリの言葉はまるで呪文のようにスーリネを痛みから解放した。荒い息をつくスーリネから視線を逸らしスルヴァリは俯いた。
「姉妹なのに、と言われることがどんなに苦しいか……。もちろん、それはお前のせいじゃないよ、スー。でもね、同じ籠を持って出かけて半刻も経たないうちにいっぱいにするのを見れば、半日かかっても一杯にできない自分がどんなに惨めか。四十年前に姉さんが器に選ばれたとき、私がどんなに惨めだったか」
母の独白はスーリネの胸に突き刺さった。母は器の妹なのに霊力がないことを恥ずかしく思って生きてきたのだろうか。……器になった姉を、居なければいい、と疎んでいたのだろうか。
――だとしたらお姉ちゃんもわたしを嫌っていたのかしら
姉はいつもスーリネに優しかった。美人で裁縫が上手で……スーリネには自慢の姉だったのに。三年前のあの日がスーリネの脳裏に浮かぶ。いつもと同じように二人で野草を取りに出かけて……早く家に帰りたかったスーリネは……
『お姉ちゃん、わたしのを分けてあげるから早く帰ろうよ』
『……いらないわ。それはスーが見つけたんだもの。先に帰ってていいわよ』
姉は微笑んだ。そして、スーリネは姉を置いて帰ったのだ。そのことをずっと後悔していた。自分が一緒なら迷うことなどあり得ない。今日だって、姉が迷って亡くなっていたところから闇雲に走ったにも関わらず、草原へと……商隊の通る寸前の場所へと出ることが出来たのだ。物言わぬ自然精霊ナトギ様が背中を押してくれたとしか思えない。一緒にいれば……もしかしたらそう考えることさえも姉の気持ちを踏み躙ることになるのだろうか。返事をしない娘に何を思ったのかスルヴェリはそっと立ち上がる。
「変なことを言ってごめんね。ゆっくり休んで。明日朝早くに神殿へと発ちましょう。大丈夫、お前なら試練を受ければ死霊なんて……」
言葉に詰まった母にスーリネがゆっくり頷くと、母はランプを持って立ち去った。
* * * * *
翌朝、一緒に行くという集落の人々の好意を丁重に断って、スーリネは父と母と三人でセリュン高原を上っていった。セリュン高原の最も高い場所、そこにショウナヴァルタと呼ばれる神木が立っている。元が何の木であったか知るものは居ない。高原のどの場所にいてもその姿を見ることの出来る、空に突き刺さるような大木だった。そこの根元に神霊シャンケルの神殿への入り口がある。
「心配するな。お前ならワノトギにだってなれるかもしれん」
父は遥か彼方の大木を見上げて呟いた。ワノトギ――通常、神霊の試練を受ければ死霊は浄化される。だが稀に憑いた死霊がトギと呼ばれる神霊の欠片をもった霊体となることがあった。トギは神霊にに準じる魔法のような力を使うことが出来るようになる。トギの憑いた人間はワノトギと呼ばれ、その力から信仰の対象となる。父や母にすれば、姉が自分のトギになれば……という気持ちがあるのかもしれない。でも……スーリエはぐっと痛む手を握り締める。
「私は……ワノトギにはなりたくないわ。普通の人間として父さんと母さんと暮らしたいの」
腕を押さえてささやくスーリネをスルヴァリはそっと抱きしめた。
それから、具合の良くないスーリネの足にあわせ、途中で三晩を野宿して三人はやっとその大木の枝先にたどり着いた。枝先から内側に入ると神木の葉陰で日の光が遮られ、昼尚暗いほどだった。
「ここなのね……」
スーリネは圧倒されてその大木を見上げる。大人五人が手を繋いでも囲みきれないような太い幹の前には小さな社があった。三人は社の前で跪き、胸の前で手を組んだ。
「……神霊シャンケル様、どうぞ我が娘スーリネをお救いください」
「あなた様の姪御、スーリネにございます」
父母の声を聞きながら、スーリネは景色がグラグラと揺らぐのを感じた。眩暈を起こしそうになり目を閉じる。揺れの収まりを感じてゆっくり目を開くと、スーリネは見たこともない空間に居た。
あらゆる木、そして草花。春に咲く花と秋に咲く花が同時にむせ返りそうなほどに咲いている。目が痛いほど鮮やかな世界には、色とりどりの蝶、鳥、そして様々な動物たちがのんびりと過ごしている。肉食獣も草食獣も一緒に寝そべっているのだ。
何故か……初めての場所なのにどこに行けばいいのかがわかった。スーリネはそこを目指して歩き出し、到着したのは簡素な木造の建物だった。その家の柱からさえ葉っぱが芽吹いたり、花が咲いたりしている。
「かわいい」
思わず口にしてから、建物の前に立つ美しい男に気づいてスーリネは慌てて口を塞いだ。
「スーリネですね。わたしはシャンケル様の眷属ソカッソ。さあ、お入りなさい。シャンケル様がお待ちです」
スーリネは頷き、ぐっと腹に力を入れてその入り口をくぐった。外観からは想像もつかないほど広い空間に吞まれて立ち止まる。だがすぐに奥の立派な椅子に腰掛ける少女に気づき、足早に近づいて跪いた。
「シャ……」
「スルヴァリの娘スーリネですね」
スーリネよりも幼い外見とは裏腹に落ち着いた声でシャンケルは告げた。スーリネはゆっくりと顔を上げる。これがわたしのセシェル伯母さん……スーリネはその顔をじっと見つめる。四十年前、スルヴァリの姉であるセシェルが神霊の器に選ばれたとき、彼女は十二歳だったと聞いている。恐らくその当時のままなのだろう。絹のような黒髪、そして宝石のような緑色の目。先ほど見たソカッソが霞むほどの美しさだった。そしてこの世のものとは思えないような美しい声。
「私の欠片を与えましょう。この試練を乗り越えて、助かるかどうかはあなた次第」
シャンケルがそっと手を上げると、そこからポツン、と緑色の光が生まれた。それがゆっくりとスーリネに近づき、ズキズキと痛む手の甲に貼り付く。その瞬間、スーリネは声にならない悲鳴を上げた。
見えたのは姉の死だった。森で迷い疲れ果て餓えに苦しみながら死んでいく姉。だがそれも一瞬のことで、気がつくと全ての痛みから解放され、目の前には姉の形の白い靄が浮かんでいた。姉の死霊は自分から離れたのだ。
『ごめんね……スーリネ』
白い靄から声が聞こえた。スーリネは驚いて靄を見つめる。
『あなたの誕生日に、内緒でたくさんの木苺を摘みたかったの。あなたが自分のせいだと後悔しているのではないかと心配で……』
それは聞き間違うわけもない優しい姉の声だった。スーリネの目から涙が零れ落ちる。姉は自分を嫌っていなかった。最後まで自分を大事に思って、心配して、そのせいで死霊になってしまったのだ。
「お姉ちゃん……大好きだよ。会いたかった。……ねえ、一緒に」
スーリネは白い靄へと手を伸ばす。姉と一緒に居られるのならワノトギになってもいい、そう思った。
『いいえ、スーリネ。あなたは一人で大丈夫。きっと幸せになる。可愛いスーリネ、大好きよ』
靄はスーリネを抱きしめるように動いたかと思うと一瞬のうちに消え、緑色の光がすうっとシャンケルの元へと戻った。シャンケルの目を見て「何故、姉はトギにならなかったのか」という質問をスーリネは飲み込んだ。
「おめでとう、スーリネ。セルシィは還りました。さあ、お前の住む世界にお帰りなさい」
「ありがとうございます」
「しっかりと生きなさい。わたしの愛し子たち……」
シャンケルの声が遠ざかる。そっと目を瞑るスーリネの耳に「スルヴァリをよろしく頼むわね」という声が確かに届いた。
「スーリネ! ああ、消えてしまったときはどうなるかと!」
父の絶叫に我に返る。すう、と大きく息を吸い込むと、母がスーリネをきつく抱きしめた。
「ありがとうございます。シャンケル様、娘を返してくださってありがとうございます!!」
涙を流して叫ぶ母をスーリネはそっと抱きしめ返す。
「母さん、お姉ちゃんと呼んであげて。セシェルさんはきっと少し寂しいの」
スルヴァリは驚いたように娘を見つめた。そして、そっと大木を見上げた。
「ありがとう、姉さん。ずっと会いに来れなくてごめんなさいね。愛してるわ」
ショウナヴァルタ神木の枝が風もないのにゆっくりと揺れた。
少女スーリネの試練
タカノケイ/作