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 私、オルニオが彼らと再会したのは、五年後のことだった。
 その当時、私はそれまで育った集落を出て、徒弟として大集落エレシュナの鍛治工房に居た。
 その年はあのおそろしい疫病がマスカダイン島に蔓延した「ザヤの年」だった。
 主に子供に拡がるというその疫病が流行り始めたとき、心ある親方は私に暫く実家に戻るようにと暇をくれた。
 私は久々の故郷への帰路についたのだ。
 感染を怖れた私は、人の多い集落を避け、山間の悪路を選ぶことにした。小集落を迂回し、その外れの山路に差し掛かったときに、運悪く悪天候となった。叩きつけるような雨に辟易していた私の前に、丁度古びた小屋が現れたのである。藁にもすがる思いで、私はその戸を叩いた。
 中から人の気配はしていたが、反応は随分と遅かった。じれったいと思う時が過ぎて、ようやく戸が開かれたそのとき、私は立ち竦んだ。

 目の前に現れたのは彼だったからだ。
 五年前、私が器候補として連れて行かれたロウレンティア神殿で、幼かった私を恐怖に陥れたあの青年神官。

 彼の容姿と迫力は変わらずだった。ただ以前と違っていたのは、その顔が土気色だったということである。
 彼は蘇った恐怖で言葉を失っている私を見下ろすなり、表情を歪めた――かと思うと、ぐらり、と私の身体にその身体を傾けた。
 反射的に彼を支えた私は、直後に肩から背中にかけて生暖かいものを浴びた。
 このように、彼との再会は、彼の吐瀉物を盛大に受けて始まりを告げたのだった。

 * * * * *

「だから、私が出ると言ったのに」

 小屋の中で唯一の女性であるチェミナが彼を優しく責めた。
 彼女は一目見てもうすぐ母になるのだろうという大きなお腹をしていた。そばかすの浮いた愛くるしい顔立ちのチェミナは私を見て微笑んだ。

「災難だったわね、名前は?」
「オルニオと言います」

 私は嘔吐物にまみれた上衣を脱ぎながら、水のしたたる頭を振って答えた。

「すまなかった」

 床に転がる先ほどの彼は、相変わらず血の気の失った顔で私を見上げ謝罪した。
 私は彼が自分を覚えていないことに安堵した。確かに成長期であるあの頃の五年という年月は、当時六歳だった私の面影を消すなど造作もないことだったろう。

「この方はヨシュアさん。今、具合が悪いの。彼はロウレンティア神殿の神官さんなのですって」

 知ってます、と私は心の中でチェミナに答えた。

「神官になるとは考えたな、と思ったぜ。俺も一度はその道を考えてみたが、駄目だ、字が覚えられねえ」

 ひきつれたような声をあげたのは、部屋の隅に蹲っているバンサーという男だった。小柄な痩せた男で、ぼろ布を頭から被り、彼は絶えず身体を揺らしてひっきりなしにしゃべっていた。
 小屋には以上の三人が居たが、加えてもう一人、チェミナの夫エッスィルが居るらしく、彼は近くの集落にて買い出しに行っているとのことだった。

「そこまでくりゃ、色男も形無しだな、ひゃひゃ。俺以上にひどい仲間は初めて見たぜ。一体、何日続くんだ?」
「わからない。この前は十四日間続いた」
「俺の二倍か。気が遠くなりそうだぜ。苦痛の程度は比べようがないからわからねえけどな。お前のはどうなんだ? 俺の場合はまず初めに頭痛だ。頭がかち割れそうになるくらいを通り越したら、吐き気がやってくる。内臓が踊りかえったら、次には全身の痺れと痛みだ。便所にもいけねえ。いつも垂れ流しだ」
「私はそのあと最後に全身に痒みがくる。身体の内側の痒みだ。掻きたくても掻けない。気が狂いそうになる」
「痒みか! それは俺はねえなぁ。痛みと痒みじゃ、どっちがマシなんだあ? それも比べられねえな、ひゃひゃ……」
「どこへ行く気だったの?」

 チェミナが上半身裸で突っ立っている私を座るように促し、聞いてくれた。

「故郷へ。山ふもとの小さな邑です」
「ついこの間、崖が崩れてこの先は行き止まりよ。私たちも立ち往生してるところなの」
「そうなのですか?」

 私は脱力した。それならばもと来た道を帰って別の道から行かねばならない。ロウレンティアとアマランスの境である険しい山岳地帯のこの地域では、外部と交通する道は限られているのだ。

「災難ね。とにかく、今夜はここに泊まって明日戻りなさいよ、ね?」

 チェミナの言葉に私はそうさせてもらうことにした。
 バンサーはとにかくしゃべり続けていた。私は最初、彼をずいぶんとおしゃべりな男だと思ったが、そうではないことに気づいた。彼は非常に流麗によどみなく言葉を綴っていたが、決して人と目を合わせようとしなかったのだ。それは盛大な独り言に近いかもしれなかった。
 私は、精神を病んでいる人間というものをそれまで見たことがなかった。
 ヨシュア神官はそんな彼に適当に返しているようだったが、やがて黙りこみ、何かに耐えるように身体を丸めた。

「すまないが、バンサー。黙っててくれないか。頭に響くようになった」
「おっと、そいつはすまねえ」
「あ、あの」

 私は思い切って口をひらいた。
 この小屋に入ったときから、気になって仕方がなかったことをついに聞いたのである。

「すみません。皆さんは、『ワノトギ』さまですか?」

 小屋の空気は一気に凍りついた。
 私以外の三人はひきつった顔で私を見つめた。
 私は聞いてはならぬことを聞いてしまったのだと察した。

 ――このとき、私は初めて彼らという存在を知ることとなったのだ。
 悪霊に立ち向かい、それを滅する英雄。そういったワノトギの陰に隠されてきた存在。

 悪霊から――いや、民から逃げ回るワノトギというものを。

 *  *  *  *  *

 私は霊力が高く、常人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえることがあった。だからこそ五年前に器候補に選ばれたのであろう。その力は年々強くなり、私は過去にヨシュア神官に会ったときには見えなかった神霊の欠片が見えたのだ。
 ヨシュア神官の眉間には淡い紫の燐光が。
 チェミナの右耳に黄色、バンサーの左足の甲に青の燐光を。
 私がそれらを告げると、彼らはため息をついた。

「運が悪い、誤魔化しようがねえ」
「オルニオ。あなたを帰せなくなったわ。お願い。私たちとしばらくいてちょうだい」

 彼らはここで身を隠していたのだという。
 疫病が出たという話を聞くなり、バンサーは居た場所からただちに逃げ、この小屋に潜んだ。
 身重のチェミナは大集落ヴェイアに住んでいたが、夫とともに避難する途中のある集落で悪霊退治を求められた。そのときにヨシュア神官と出会ったのだという。彼が悪霊退治を彼女の代わりに引き受け、その後、夫と彼女とヨシュア神官の三人で、この山を越えようとして行き詰ったらしい。

「貴方がこんなに弱いワノトギだと知ってたら、頼まなかったわ」

 チェミナが罪悪感を帯びた声でヨシュア神官を非難した。

「私自身も後悔してるところだ。あと、一日早くあの集落を出ればよかった」

 言葉と逆にヨシュア神官の表情は優しかった。

「悪霊を憑かせた後もスタスタここまで歩いてきたものだから、てっきり貴方はレグロ(兎)かと」
「私の力は本来、身体を操る能力だ。疲れるから滅多にやらないが……自分の身体はなんとか操れる。あそこから出なければ、私は延々と悪霊の相手をさせ続けられて、きっと死んでいた。だから必死だった」
「その無理もたたって、今そんな状態なの?」
「いや、いつもこんなもの」
「俺っちとヨシュアは、アデロ(蝸牛)なんだよ、坊」

 バンサーがへらへらと歪んだ笑顔で私に説明してくれた。
 ワノトギにも当然ながら格上と格下がいて、ヨシュア神官と彼はその最下層なのだという。
 ワノトギにしかできぬ尊い行為――悪霊を滅するという行為――にはワノトギ自身の苦痛を伴うのであるが、その苦痛の種類や質は実に多岐にわたるものであるらしい。トギ、ワノトギの霊力の高低、ワノトギ自身の体力、体質、センスの有無、はてまたトギとワノトギの相性によっても千差万別なのだそうだ。
 悪霊を身体に憑かせても、軽い苦痛程度で収まり、日常生活が続けられる者や、一晩休めば復活する者をレグロ(兎)、二日から五日程度復活に要する者をモデロ(亀)、それ以上の時間がかかるものをアデロ(蝸牛)――と、苦痛の期間でワノトギを区別する言葉があるらしい。

「私は、モデロ(亀)ね。だいたい、四日で終わる。苦痛は軽い方だと思うわ」
「母もワノトギでモデロ(亀)だったが、苦痛は私と同程度だったと思う」
「お袋さんもワノトギか!ついてねえな」
「母は私より霊力が低かったがセンスがあった。私は父親似でセンスが無い。そして私もトギの霊力も底辺だ」
「神殿から出なきゃ良かったのに。どうして、出ちまったんだよ」
「亡くなった父の妹に形見を渡しに行った帰りだった。運が悪いとしか言いようが……」

 ヨシュア神官は吐き気に堪えるような表情をし、数秒後、何かを飲み込んだ。

「……まぁでも、私は苦痛に波があって、数時間おきに今のように動けるくらいは軽くなる。バンサーと違って、小用には行けるからそこらへんは良かったか」
「波があるなんて、 まるで陣痛みたいだと思ったわ」

 チェミナの言葉にヨシュア神官は微笑んだ。

「……母も、君と同じことを」

 私はそのときに今更ながらヨシュア神官が絶世の美男子であることに気付いた。

「陣痛の痛みってどんなものなのかしら」
「気にしなくていい。母はこの苦痛に比べれば、陣痛の痛みなんて話にならないと言っていた」
「なら良かったわ」

 なんと、彼はこんなに優しい表情が出来る人物だったのか。思い出の中の彼との差に、わたしは開いた口が塞がらなかった。

「先の子は流れちゃったの。宿していることに気がつかなくて。……この子は無事に産んであげたい」

 チェミナは言って、自らの膨らんだお腹を撫でた。

「あいつら、こっちのことなんてお構いなしだ。逃げても逃げても追ってきやがる」

 バンサーがひきつれた笑い声をあげ、頭に被っていた布を取り払った。

「見てくれだけは俺っちはフラサオさまの御加護をばっちりといただいちまったんだよ、おかげで隠れられねえ」

 バンサーの髪は彼の瞳と同じ鮮やかな水天の色をしていた。一目でワノトギと分かる容姿だったのだ。

「水も出せねえから普段は無視しやがるくせに、悪霊祓いのときだけはあいつら、すり寄ってきやがる。……へへ、この間なんか、逃げる俺を捕まえて死ぬ寸前の死霊憑きと共に閉じ込めやがった」

 相変わらず、彼の視線は宙を漂っていたが、その目の端は赤く濁っていた。

「心を尽くした礼なんか要らねえんだよ。見逃してくれりゃあいいんだよ、俺っちは。……たまに、一晩寝りゃケロリとしてるレグロ(兎)をみると、俺が殺してやりたくなるぜ」
「ちょっとバンサー」

 チェミナがたしなめたが、バンサーは悪態を呟き続けた。

 私は望まぬ客であったのだ、と理解した。
 彼等は民から身を潜めている卑小のワノトギたちだった。疫病で次々と発生するであろう悪霊祓いの強要から逃れてきた哀れな人たちであった。
 悪霊祓いによって、命を落とすワノトギもいるのだと、私は初めて知ったのだった。

「今のうちに一眠りさせてくれないか」

 ヨシュア神官が言うなり目を閉じた。私たちが口を閉じると、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
 彼はこの小屋に来てからほぼ不眠不休なのだと、隣のチェミナが小声で教えてくれた。
 沈黙に満ちた小屋内を私は手持ち無沙汰に眺めわたした。
 朽ちかけた木造小屋であるが、雨風はなんとか凌げる程度である。近くの集落の人間がその為だけに建てたものだろう。床に筵をひいて座っている尻からは土の冷たさが伝わり、私は妊婦であるチェミナには良くないのではないかと思った。
 腹が少し鳴った。
 今日中には実家の邑へと着く予定だったのだ。私がしけた堅焼きパンを尻のポケットから出して齧り始めたとき、小屋の戸が叩かれた。

「俺だ。チェミナ」
「エッスィルだわ」

 はたして小屋に入ってきたのは、彼女の夫だった。チェミナ同様、顔中がそばかすだらけの親しみやすそうな若い男だった。しかし、その表情は陰っていた。

「今日、集落の先にある橋が落ちたらしい。ヒヤシンス方面への道は先日の土砂が崩れたままだそうだ。……ここら一帯は孤立した」

 私が驚くのと同時に、バンサーが風のような悲鳴をあげた。

「そんな、確かなの、エッスィル」
「私たちの集落に居た行商の男が市場に居て、そう言ってたんだ。……すまない、彼に私の顔を見られたかもしれない」

 夫の言葉にチェミナが顔をこわばらせた。
 ワノトギであるチェミナは当然、住んでいた集落中の皆に顔を知られているだろう。そして、その夫も然り。

「そして今日、死霊憑きが一人、集落に出たらしい。憑かれたのは、病にかかった子供だと」
「あいつら、血眼になって来るぞ!」

 バンサーが立ち上がった。
 疫病に罹った子供に死霊が憑いたなら、それが悪霊化するのは時間の問題である。

「どうすんだ! どこに逃げたら良いんだよ、畜生!」

 バンサーは叫んだあと目を泳がせていたが、はたと気づいたように私たちに視線を投げた。エッスィルとチェミナはうつむき、彼と目を合わそうとしなかった。救いを求めるように次いでヨシュア神官に目を移したバンサーは、寝息を立てている彼の様に泣きそうに笑った。

「ハハ……この中じゃ、俺か」

 絶望の声というのは乾いた声なのだ。

「やりたく、ねぇなぁ……」

 誰にともなく吐かれた救いのない願望の言葉。

「……やりたく……ねぇ……なぁ……」

 バンサーはその後、小屋の隅に蹲るようにして座り、頭を抱えた。なにやらぶつぶつ呟き、時折額を壁にぶつけて身体を揺り続けた。エッスィルやチェミナはそんな彼に触れようとせず、私は彼がたてる音を鬱陶しく感じながら、そのまま小屋は夜を迎えた。

 夜、私はヨシュア神官が漏らす声に何度も目覚めた。苦痛が戻ってきたのだろう。彼は私たちに気を遣い、我慢しようとしているのだが、堪えきれない様子が伝わってきた。一体、悪霊を取り込んでから何日経っているのだろうか。まだまだ続くのだろうか。
 そんなことを考えながら、私はうつらうつらとした軽い眠りに何度か落ちた。
 朝が来た時、小屋の中の人数は一人、減っていた。

「……バンサーは」

 気付いたヨシュア神官が伏しながら他の者に聞いた。
 彼は逃げたのかもしれない。昨日、死霊が集落に出て、私が同郷の男に顔を見られたと話したのだ、とエッスィルが答えるのを聞くなり、ヨシュア神官は顔色を変えた。

「彼を一人にさせるな! 探しに行け!」

 彼の声に弾かれるように外へと出たエッスィルだったが、暫くして戻ってきた。
 すぐ近くの崖の下に、とエッスィルは小さな声で話しだした。

「彼が落ちていた。足を滑らせたのか、もしくは……」
「バンサー!」

 ああ、と声をあげ、顔を覆うチェミナをエッスィルが抱きしめた。
 そんな彼らからヨシュア神官に目を移した私は、息を飲んだ。
 彼はあのときの彼だった。
 ロウレンティア神殿で私を見た彼の目。

 彼は静かにとてつもなく怒っていた。
 ようやく私は、過去に彼が向けた感情の矛先は私ではなく、私を通り越した何かであったことを知ったのだった。

 その日の昼には、近くの集落の民が私たちを見つけた。私たちは彼らの集落に連れ戻されることになった。

青瓢箪/作

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