Muscadine Chronicles
当サイトはアンソロジー小説企画「マスカダインクロニクルズ」のホームページです。
「……グ、ジグ」
暖かな春の木漏れ日を頬に感じ、耳にナルの声が響いて覚醒する。どうやら知らぬ間にまどろんでいたようだ。
「んぅ……んぁ」
精一杯のびをして、ばきばきと豪快に背骨を鳴らしながらあたりを見回すと、かろうじて日が地を照らすくらいの深い森の中だった。にもかかわらず大樹に腰を預けて座っている僕に、木の葉がよけたように日が当たっているのはナトギ様の計らいだろうか。こほん、と一つ咳払いをして、心配そうに顔を覗き込んでくるナルに向けて僕は笑顔を作った。
「すこし、眠ってたみたいだ」
『ワノトギ……あれは気を失うっていうんだよ』
僕の心配をしてくれたのか、いつもは眠ってばかりのトギが僕に声をかけてきた。煌と木陰に光る緑は、図らずして木漏れ日を当てたのが誰かを僕に伝えていた。一瞬遅れてトギの言葉の意味に気づく。
「あ、ああ……え?」
――気を、失っていた? 一瞬耳を疑ったが、すぐその意味が分かった。後頭部と、特に眉間の辺りがじくじくと傷み、熱を持っている。そこまで来て、ようやく意識が覚醒してきた。
「……なんでだっけ」
確か、数日前に死霊に憑かれた女の子を見つけて、神殿に連れて行こうとした。ご家族さんに「うちの娘のことは、うちでやる」なんて怒鳴られたけど……そこから先を思い出そうとすると、眉間の傷がずきりと熱を上げた。何故だか胸に重い、冷めた鉛が詰まっているようで、息苦しい。
「ジグ、水……汲んできたから、飲んで」
「……ありがとう」
ナル――一緒に旅をしている相棒であり、ぼくと同じくワノトギの少女――からでっぷりと重い水筒を受け取って、胸に詰まった何かを飲み下すように勢いよく呷った。冷たい澄んだ水はのどを通って、無事胃袋まで「問題なし」と信号を送る。どうやら、嚥下しきれない胸の何かは物理的な何かではなく、僕の気持ちの問題らしい。
「ナル、僕はどのくらいこうしてた?」
「半刻くらい」
「どうしてこうなった?」
「石を投げられて、頭にぶつかって……その拍子に転んで頭を打った」
「なんで石を投げられたんだっけ?」
「助けた子がワノトギになったことに、村の人が怒ったから」
「……そっか」
一連の流れをうっすらと思い出して、目を瞑る。腰を預けていた大樹に慎重に頭を預けた。後頭部にあまり痛みはないということは、投石の当たり所が悪かっただけらしい。……それにしても石、か。一人さびしく酒を飲む老兵ではないけれど、昔はよかっただなんて、ついそう思わずにはいられなかった。
「ジグ、大丈夫?」
声に気づいて瞳を開いてみれば、ナルの濡れたように光る群青の瞳がきらりと僕を見つめていた。いつもだったら見惚れて呆けているところなのに通常運行なあたり、この胸の鉛のようななにかは、どうやら僕にとって相当深刻な問題のようだった。うん、と咳払いをしてから、返事をするついでにもう一つ気になっていた事をナルに聞いた。
「……ああ、大丈夫だよ、僕は。ナルは、怪我はないかい?」
「……私は、ない」
返事をする前に一瞬ナルが目を背けたのを、僕は見逃さなかった。まだ一月ほどの付き合いだけれど、ナルの嘘は分かりやすい。ナルは嘘をつくとき、人の目を見ないのだ。
「嘘をつくのが下手だね、ナル。どこを怪我した?」
問いただすと、ナルは唇を噛み締めて俯いてしまった。
『ワノトギ……あんたね、ナルを庇って石に当たったんだよ』
「ああ、そういう……」
呆れたような口調のトギに言われて少しづつ、記憶が戻ってくる。そうか、痛みではなく、自分のせいで僕が怪我をしたことを気にしていたのか。石を投げられたのは……そう、確かにナルだった。ワノトギに成った女の子の両親に「あんたたちさえ来なければワノトギになんか成らなかったのに」みたいなことを言われたのだっけ。それで、何かナルが怒ったのが原因になった、ような……ああ、どうにも細部を思い出せない。かねがね役に立たないとは思っていたが、とうとう本格的に僕の頭は脳足りんになったらしい。それでもつらそうに俯くナルを慰めることくらいはしなくてはいけない。
「別に、気にすることないよ。そんなに深い傷じゃないし」
出来るだけ明るく聞こえるように言った。まさに言葉のとおりだった。このくらいの傷で騒ぐほど軟派な男じゃないと自負しているし、ナルみたいな美少女を守ってついた傷とあれば勲章だろう。
「それも、だけど。そうじゃ、ない」
ナルが搾り出すような声で呟いた。
「……?」
いつもとは違うナルの様子の理由がわからず、僕は首を捻る。
「ジグ、嘘、ついてるから」
嘘。何が、だろうか。僕は嘘をついた覚えはないし、僕のトギが何か余計なことを吹き込んだ様子もない。ならば、何が嘘なのだろうか。
「ジグも、嘘をつくのが下手、だから。咳払い……」
言われて、はっとした。そういえばそうかもしれない。けど、何が嘘なのか分からない。僕は、嘘なんか――
「ジグ、大丈夫じゃないって、言ってみて」
また、ナルの瞳が僕をじっと見つめていた。気づけばその顔はずっと近くに来ていて、息が詰まりそうだった。胸に詰まった何かが、熱を持ち始めたような気がする。
「――っ、僕は大丈夫だよ」
のどが渇いてうまく言葉が出ず、思わず咳払いをしてしまった。今度はうまくやってみせる。
「僕、は」
全然大丈夫だ。嘘なんかついていない。そう言い切ってしまえばいいのに、うまく口が動かない。自分より一回りも小さい女の子に気圧されるなんて、軟派な男じゃないなんていう前言は撤回したほうがよさそうだ。
「ジグ」
ナルが僕の名前を呼んだ。消え入りそうなその声に、胸の熱さはどんどん増していって、痛いくらいに心の臓を締め付けている。情けないなんてもんじゃない。何に嘘をついていたかなんて、とうにわかりきっていたくせに。一生懸命忘れた振りをして、自分の気持ちに嘘をついて。
「僕は、大丈夫っ、じゃない……!」
とうとう鉛は形を失って、丹田の上に溶け落ちた。堰を切ったように涙を流し、泣き喚く僕の右手を陽だまりの様な暖かさが包む。横を向かずとも分かる。ナルが寄り添ってくれているのだ。まったく、本当に情けない。僕はつまり、好きな女の子の前で泣くわけにはいかないなんていう、ちんけな男のプライドの為に嘘をついていたのだった。
■
「ナル、もう大丈夫だから……そろそろ離れないとさ、ね?」
そんなこんなで十数分、とっくに涙の収まった僕の右手にくっついたナルは、ひっつき虫のようなしぶとさを見せていた。みればナルも目じりを赤くしていて、つまり、僕は短時間のうちに好きな女の子の前で号泣した上に、好きな女の子を泣かせるという不名誉まで達成してしまったのだろう。つくづく自分の女々しさ愚かしさが憎くなる。
「何故、泣いたの? 何が、大丈夫じゃないの?」
ナルがちょっと涙ぐんだ声で聞いてきた。はぐらかすこともできたが、ここまできたらもう一切合切吐き出してしまったほうが楽だろうと思って、少し、昔の話をすることにした。
「僕が、なんでトギの力で人助けをしようと思ったか、君に話したことはあったっけ」
「ない」
「だろうね、したことないから」
恥ずかしさを隠すために、つまらない冗談でナルをからかいながら、自分の原点――夢を思い出す。胸に焼きついたあの記憶は、今なお僕の胸を焦がしている。別に、ワノトギだからって誰かを助けなきゃいけないわけじゃない。力を隠して生きる道だって選べたはずなのに、僕がワノトギとして生きる理由を。
「昔ね、ワノトギになる前、死霊に憑かれていた僕は、ある人に救われたんだ」
一度切って、大きく息を吸う。
「母は僕を殺されると誤解して山に逃げた。僕たちを助けようと追ってきたワノトギは、ぼくを守りたいあまりに人間不信になった母に、ひどい言葉を投げかけられた。その上、その人には、死霊に憑かれてすっかり参ってた僕を助ける力はなくてね。弱っていく僕の目の前で、悔しそうにずっと唇を噛み締めてたよ」
吐き出すように、一気に言葉を紡ぐ。埃を吹き払うかのごとく、忘れかけてた理想を思い出すように。
「でもその後……すぐに癒しの力を持ったワノトギが来て、僕は一命をとりとめた」
「……? その人が、ジグを助けた人?」
「命を助けたのは、ね。けど、本当に僕を救ったのは、最初の、僕を助けられなかった人なんだ」
ナルは不思議そうに首を捻った。そう、それが始まりだった。
「笑ったんだ……その人。僕が助かったとわかったその時に。助かったとたん都合よく彼らを信じた僕と母に、悪態の一つくらい吐いたってよかったのに。助かったのは僕なのに。……まるで、自分が助かったみたいに……笑ったんだ」
その笑顔が、あんまりにも尊かったから。
「自分も、あんな風に笑ってみたいって……そう思ったんだ」
その後、僕はサンセベリアの神殿で試練を受けて、ワノトギに成った。これはきっと運命だと思った。あの人のように生きるのだと天に示されたのだと思った。けれど、現実にはこんなものだ。石を投げられるなんて、母があの人になげかけた言葉に比べれば屁みたいなものだろう。それなのに打ちひしがれて動けない。
「まあ……僕みたいな泣き虫には、きっと無理だろうな」
要するに、間違っていたのだ。僕は聖人にはなれない。たまたまワノトギになれたから、勘違いしていただけなのだ。試練なんて、所詮人間がつけただけの名に惑わされて、立派な人間に、あの人のようになれたのだと夢をみていた。
「そんなこと、ない」
強い口調で、ナルが言い返してきた。息が顔にかかるほど近い。
「だって、ジグは優しいから。悲しいことを、悲しいと思える人、だから」
ナルはいつもあまり長いことを喋らないので、いつもなら赤面して突き放してしまうような距離であっても、その意味を考えることで僕は冷静でいられた。
「だから、誰かを救えたら、それを良かったって、笑えるの」
そういって、ナルは笑ってみせた。丁度、あの人のように。けれどやっぱりそれは、僕にはどうにも眩しくて、思わず顔を伏せてしまった。彼女たちはやはり、僕みたいな陳腐な人間とは人種が違うんだろう。やはり、子供のころの夢は根腐れを起こす前に切り捨てて、現実を見るべきなのだ――
『いいとこ悪いけどワノトギ、お客さんだよ』
「え――」
思考がネガティブに切り替わったところで、僕のワノトギが空気を読まない一言をくれた。ワノトギの言うお客さんの正体は、その気配を探ることなく判明した。
「あ、あの……」
僕らが腰掛けていた大樹、声がしたのはその後ろからだった。つい最近聞いたばかりのその声は、僕らが助けて、そして――ワノトギに成った少女のものだった。
「ごめんなさい……あの、盗み聞きする気は、なかったん……ですけど」
少女はとても申し訳なさそうな顔で大樹の裏から姿を現した。トギめ……知ってて黙ってやがったな。
「……!!!」
ナルには僕のトギの声は聞こえない。突然現れた少女を見て、さっきまで離れようともしなかったナルが、顔を耳まで真っ赤にして、それはもう驚いた猫のような動きで僕の右手から飛びずさった。なんだろう、微妙にショックだ。
「謝ろうと、思って……それで、気配を頼りに探してみたら、大事そうな話をしてて、急いで隠れたら、その……」
「つまり、全部見てたと」
「はい……」
……おお、なんというか、これはすさまじく恥ずかしい。つい先刻までなにかくよくよしたことを考えていた気がするが、最早微塵も思い出せない。
「で、謝るって……何を?」
三人……正確には三人それぞれのトギを含めて六人の間に流れる、次に誰が話し出すかで賭けをしているような雰囲気を打破すべく、まずは彼女が何を謝りに来たのかを聞くことにした。
「え……それは、あの……」
「僕の赤裸々な話を盗み聞きしたこと以外には、何もないと思うんだけど……」
「すいません、それもなんですけど……」
よく思い出してみるが、彼女は僕らに何も非などないはずだ。むしろ、反対する彼女の家族の意思を蔑ろにしたのだから、僕らに非があるまで有り得る。ならば、何故。
「だって私、助けてもらったのに……村の人たちがあなたたちに石を投げるのを止められなかったんです。トギの力を使えば、止められたはずなのに……怖くて、体が動かなくなって……何も、できなくて」
少女は、今にも泣き出しそうな声で語った。確かに、トギの力を使えば、投石なんて簡単に止められるだろう。……第一投で気を失うなんて間抜けでなければ、の話だが。
「止められないのはしょうがないさ。みんな知ってる人たちだったんだろう? それがみんなしてあんな風に興奮して石を投げるのをみたら、怖くて動けなくなるのは当然だよ。それにね」
そういって、少女に笑ってみせる。
「僕らは君を助けられた、それだけで――それだけで僕らは十分なんだよ」
そこまで自分で言って、ようやく気付いた。ああ、なんだよ。せっかく諦められそうだったのに。やっぱりナルの言うとおりだった。
「なんで、あなたは――」
少女の言葉を遮るように立ち上がって、懐からあるものを取り出す。今日はあの日の相似形。僕は今、あの日の僕を見ている。なら、伝えるべき物が一つ。
「僕の話を聞いていたなら分かるだろうけど、これはその、僕の恩人から貰ったものでね」
それは、小さな鉄の馬。僕をあの夢に繋ぎ止めていた、大切な楔だ。
「今、ワノトギには悪い風が吹いている。だから、トギを持っていることを隠して、自分のためだけに力を使っていたほうが、きっと幸せに生きられる。……少し長生きにはなっちゃうけれど、君は見た目に変化もなかったしね。人並みの幸せを求めることは何も恥ずかしいことじゃないし、君の家族だってそれを願っていると思う」
そういって、少女に小さな鉄の馬を手渡す。
「――けれど、君が誰かを助けたいと思うなら、誰かからワノトギと呼ばれるのを望むなら。これはその時のために渡しておく。そして、助けた誰かに伝えてほしいんだ。ワノトギとして生きないのなら、ただのお守りとして取っておいてくれればいいから」
少女は、しっかりと受け取ってくれた。思いは伝わったのだろう。
「ありがとうございます。大事にします」
少女にとって村の人の言葉は「ワノトギになるくらいなら死んだ方がよかった」という意味に他ならない。それなのに、救われた礼を忘れず、それを返せない自分を許せないと言った少女は鮮やかに笑った。きっとこの少女はいいワノトギになる、そんな予感がした。
「それじゃ、もう行くといい。ご両親に心配がかかる」
「はい。――それではまた、いつか」
少女は、そう再会を願う言葉を口にすると、背を向けて走り出した。
「……お守り、渡しても、よかったの?」
横で静かに見守っていたナルが口を開いた。心配するような口ぶりではあるけども、小さく笑っているあたりナルもわかっているのだろう。
「僕にはもう必要のないものだからね。彼女の顔、君も見てただろう?あの子はきっと、僕たちが何もしなくても人を助ける道を選んでた。なら、餞別としてはあれ以上のものはないと思ったんだ」
僕の夢を、長い間支え続けてくれたお守り。なら夢が叶った以上、また新しく夢を見る誰かに渡すのが一番だろう。そのほうがロマンもある。それにしても全く、神霊様も意地が悪い。折角楽な道に逃げれそうだったのに、そんな所であんなものを見せられたら、また誰かを助けてみたくなるじゃないか。
「なら、もう大丈夫?」
言いながら、ナルが僕の手を引いた。もしかして、彼女は最初からこうなるのを分かってたんじゃないだろうか、なんて思う。手を引かれて一歩踏み出す。
「ああ。――僕はもう、大丈夫だよ」
足取り軽やかに、僕らは同じ道を歩き出した。誰かを救う行為に、報いはないかも知れない。その道程の果てに、救いはないかも知れない。けれど、希望はどんなところにも咲くと知ってしまった以上、僕は二度と折れることはなく、ワノトギとして世界の悪意と戦い続ける。そしてその先に、誰かが少しでも優しい未来があるのなら――なんて、僕はまた新しい夢を見るのだった。
そうあれかしと種を撒く
砂屋作