Muscadine Chronicles
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「ゼキア、大変だ! ジュギオさんが!」
身を切り裂くような叫び声が、集落中に響き渡った。
結婚を一週間後に控え、幸せの絶頂にいたゼキアは、これより地獄へと叩き落とされてゆくのだった――。
* * *
フィスメルの集落からほど近く。ルームス川中流の川辺には、すでに人だかりができていた。
「かわいそうに、あれはゼキアちゃんの……」
「酷いねぇ。誰があんなことを」
「あれはきっと死霊になるね。ワノトギ様が来るまで近づいちゃだめだよ」
他人事のように哀れみ、囁き合う彼らを、ゼキアは必死にかきわけていった。
きっと何かの間違いだと信じながら。嘘だ、嘘だと祈るように叫びながら。
「シエナさんところのご主人が、今朝釣りに来たらしくてね。それで……見つけたらしいわよ」
彼らの視線の先には、岩場に打ち上げられたひとりの男がいた。衣服は赤く染まり、露出した肌は痛ましく変色している。
「う……うそでしょ……」
その男は間違いでも嘘でもなく、ゼキアの父ジュギオだった。
娘の結婚に、一足先に祝い酒を飲みに行った、あのジュギオだった。
「おとう、さん……おと……い、いや、いやああああああああっ」
変わり果てた父のいる岩場へめがけ、ゼキアは夢中で川に入って行った。
ルームス川は比較的流れの早い川だが、水位はそれほど高くない。慎重に進めば、岩場にたどり着くのはそう難しくはないはずだった。
しかし、あと少しで岩場にたどり着けるかというとき、ジュギオの体から靄のようなものが立ち上った。その靄はまるで意思を持ったかのように、まっすぐゼキアの方へと向かってくる。
「な、なに?」
逃れようと川の中でもがけばもがくほど、その不吉な靄はゼキアの体に絡みついていった。やがて体中を突き刺すような痛みが走り、不安定な川底で保っていたバランスが失われていった。
「た……たすけて……!」
ついに川の水を大量に飲み込んで前後不覚となり、ゼキアの顔は川の中へと沈んでいった。
しかしその様子を眺めていた者の誰の目にも、あの不吉な靄は見えていなかった。ただゼキアが急にバランスを崩し、溺れてゆくように見えただけだった。
「遅かったか」
ワノトギであるイオとルシオが到着したのは、ゼキアに人工呼吸が施され、意識が回復して間もなくのことだった。
「う……おとう……さん」
ゼキアの呼吸は乱れ、顔は苦痛に歪んでいる。その腕には死霊憑きの証である蚯蚓腫れが、不気味にうごめいていた。
「随分と水を飲んでいたようだが、命に別状はないようだな。だがこの状態で放っておけば、やがて衰弱し、死霊にとり殺される。そうなる前に、すぐにでも神殿に向かわねば」
「あ……の、父さんは……お父さんはどこへ?」
痛みをこらえながら、ゼキアは傍に立つ二人のワノトギへ問いかけた。ジュギオの姿はもう岩場の上にはなかった。
「既に海へと流した」
「そんな……」
「ただの骸だ。分かっているのだろう? 今お前に死霊として憑いているのが、お前の父親だということが。ならばあの骸に執 着する必要もあるまい」
白髪のワノトギ――ルシオに気圧され、ゼキアはただ頷くことしかできなかった。
死霊に憑かれたものに、悲しみに浸るような時間は与えられない。
「出発前に母親か誰か、会っておくべき人はいる? 誰も居なければ、このまま神殿に向かうけど」
赤髪のワノトギ――イオの肩を借り、ゼキアは立ち上がった。
「母は、いません。でも婚約者に……このことを話さないと……」
「そっか。じゃあ一旦集落に戻ろう。俺たちも一緒に行くから」
二人のワノトギに支えられ、ゼキアは重い足取りで集落へと向かった。
ゼキアの住むフィスメルという集落は、ロウレンティアの地に隣接している土地柄、神霊やワノトギに対する信仰は比較的厚い。しかし小さな集落であるが故、保守的な気質である彼ら住人にとって、一度死霊に憑かれたものは排除の対象となる。
ゼキアの婚約者一族も例外ではなかった。
* * *
「結婚はなしだ」
開口一番、婚約者とその両親はゼキアの体について、そして父ジュギオについて、一切気にかけることもなく事務的に婚約の破棄を告げた。
「死霊憑きなんてよしてくれよ。キズモノじゃないか」
「でも神殿で浄化に成功すれば、元通りになるってワノトギ様が……うっ」
浄化――その言葉を出した途端、ゼキアの体に痛みが走った。
「ワノトギか。じゃあもしお前がワノトギにでもなったらどうするんだ。トギになったお前の父親と三人で結婚生活を送れって言うのか?」
「そ、それは……」
「とにかく結婚はなしだ。早く俺の前から消えてくれ」
半ば強引に、ゼキアは婚約者の家から追い出された。しかしその場に残っていたとしても、体中を突き刺すような痛みのせいで、これ以上話し合うことは不可能だった。
家の外へと出ると、好奇の目をした住人たちが遠くからこちらの様子をうかがっていた。ゼキアは赤く腫らせた目を伏せながら、近くにいたイオとルシオの元へ駆け寄った。
「終わったか」
うつむきながら頷いたゼギアのその姿は、明らかに憔悴しきっていた。だからといって、ここでゆっくりと休んでいる時間は無い。
「ここからはアマランス神殿が近い。行くぞ」
「……はい」
二人のワノトギに連れられ、ゼキアは集落を発った。
* * *
しん、と静まり返った墓地で、ジュギオはじっと妻の名を見つめていた。
妻が殺されたあの日から二年、娘のゼキアを抱えて必死に生きてきた。それはまるで地獄のような日々だった。
しかし、ようやく二人にも笑顔が戻った。ゼキアの結婚が決まったからだ。
「今夜は祝い酒だ」
墓前になみなみとついだ杯を置き、ジュギオは亡き妻と酒を酌み交わした。ともに娘の結婚を祝うために。幸せを願うために……。
不意に頬から涙がこぼれ落ち、手に持った杯の中で酒とまじりあっていった。
「……辛気臭くてしゃあねえ。リア、また来るからな」
ジュギオは涙酒を墓標へと注ぎ、その場を去った。
「おーい、ここだここだ」
馴染みの酒場へ入ると、一人の男がジュギオに向かって手を振った。飲み仲間である彼のテーブルには既に何本かの酒瓶が転がっている。
「はい、ゼギアちゃん結婚おめでとーっと」
彼はジュギオが席に着くのも待たず、酒を飲みながらテーブルに頭を沈めていった。
「やれやれ」
ジュギオは苦笑いしながら彼の向かいに座り、ひとり乾杯の酒を空にした。
今夜は妻に娘の結婚を報告した後、この酒場で仲間と朝まで飲み明かすつもりだった。しかし目の前にいる男はこんこんと眠りにつき、目をさます気配はない。
他に知り合いでも居ないかと店内を見渡したが、顔見知り程度の客は何人か居るものの、酒を共にするほどの仲の者は居なかった。
仕方ない、今夜は一人で飲み明かそうかとジュギオが酒瓶に手を伸ばしたとき、背後から話し声が聞こえてきた。
「二年前のあれは失敗だったな」
「ああ、娘が狙いだったのに、いざ忍び込んだらババアしか居なかったアレか」
「そうそう。大人しく金目のモンでも出しゃいいのに、大声で叫びやがってな。ああなったらやるしかねーじゃん」
「それに叫び声がうるせぇのなんの。なんだっけ? ジュギ? ゼギ? アァアアアって」
ジュギオは全身の血液が逆流してゆくような感覚を覚えた。
――まさか、彼らが妻を殺したのか?
気付かれぬよう横目で後ろを見やると、声の主はまだあどけなさの残る少年たちだった。フィスメルの人間ではない。
震える手を押さえ、一言も聞き漏らすまいとジュギオは彼らの会話に集中した。
「年の割になかなかいい女だったけどな」
「でも俺は娘の方とやりたかったけどな。ゼキア? だっけ? このあたりじゃいい女って言われてるんだろ?」
「らしいな。よし、せっかくフィスメルに来たことだし、今晩あたりリベンジといくか」
そう言って少年らは店を出ていった。
すぐさまジュギオも二人分の飲み代をテーブルに置き、店をあとにした。怒りに震えながら、しかし冷静に、彼らの後を追っていった。
――リア、お前の仇をとってやるからな。
人気のない道に差し掛かったところで、ジュギオは酒瓶を強く握りしめた。
「おい、待て」
「ああ? なんだよオッサン」
「二年前、お前らに殺された女の夫だよ」
そう言ってジュギオは酒瓶を割り、少年らに殴りかかっていった。
* * *
ゼキアは擦り傷だらけの足を引きずりながら、アマランス神殿の階段を下へ下へと降りていた。
――お父さん、なんで私に憑いたの? なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないの?
階段を下り、視界が暗くなればなるほど、ゼキアの心も暗く、卑屈になっていった。
――私はただ、幸せになりたかっただけなのに……。
階段を降りきり、広間へと入ったところで、一人の女が三人を迎えた。
「ようこそ。私は炎の神霊、アッサラフ様に仕える眷属アニーチェ。試練を受けるのは貴女ですね?」
「……はい」
「ここより先、貴女は一人で進むこととなります。準備が整いましたらお行きなさい」
ここからは一人。ゼキアは一瞬ひるんだが、地下神殿へと歩を進めた。
今は試練への恐怖よりも、なぜ父ジュギオは死ななければならなかったのか、そしてなぜ自分に憑いたのか――それを知りたい気持ちの方が強かった。
階段が途切れ、目前に崖が現れた。その崖の先には灼熱のマグマの海が広がっていた。アマランス神殿の最深部、炎の神霊アッサラフの鎮座するマグマの海だった。
突然、大地が割れてゆくかのような地鳴りが起こった。そして真紅の海がうねり、波の動きが勢いを増したかと思うと、あちこちでマグマの噴出が始まった。続いてこの世のものとは思えないほどの轟音が轟き、マグマの海の中で激しい爆発が起こった。
その爆発とともにマグマの海から現れたのは、紅く燃え盛るような髪をした男――神霊アッサラフだった。
ゼキアは恐怖のあまりその場にへたり込み、声をあげることさえできなかった。
「ゼキアよ、我の一部を死霊に与える!」
神霊アッサラフより勢いよく放たれた赤い欠片が、ゼキアの体へと吸収されていった。
* * *
ゼキアは暗闇の中を漂っていた。背後に父の気配を感じて振り返ると、小さな光が浮かんでいる。
「お父さん、そこにいるの?」
懸命に光へ近づいてゆくが、一向に距離は縮まらなかった。しかし急に光が強くなったかと思うと、そこにビジョンが浮かんだ。
――割れた酒瓶を持つジュギオ。
『二年前、お前らに殺された女の夫だよ』
――少年たちに取り囲まれ、かわるがわる殴られるジュギオ。
『リア、すまない。お前の仇はとれなかった……』
――そして深夜のルームス川に投げ込まれてゆくジュギオ。
『ゼキアだけは……お前らに殺させない……』
光とともにビジョンがふつりと消え、再び周囲は闇に包まれた。
「い、今のは……。いやああああああーーーーーーーっ」
ゼキアは力の限り泣き叫んだ。泣いて泣いて、声が枯れ、呼吸が乱れ、涙も声も吐く息も、もう何も出なくなるまで泣き続けた。
そして絶望のままその場に倒れ込み、瞳を閉じて自身の死を望んだ。
「あああああああぁぁぁぁ…………」
* * *
――あたたかい……。
心地よい感覚に目を開くと、白い靄が体を優しく包み込んでいた。
『ゼキア、生きるんだ』
懐かしい声が、頭に響く。
「その声は……お父さん?」
『そうだ。こんな姿になっちまって、情けないな。はは……』
父の悲しみ、無念が、体中に伝わってくる。
『俺は、奴らからお前を守るつもりで死霊になって憑いたんだ。だが結果的に、お前をひどく傷つけてしまったようだな』
「そん、な……」
『でもな、父さんはあの時ああするしかなかった。……すまない』
「お、と……」
『俺はこれからトギになる。お前のすぐそばで、ずっと力になってやるからな……』
ゼキアの意識は、そこで途切れた。
* * *
再び目を覚ましたとき、ゼキアは神殿の外にある岩場にもたれかかっていた。イオとルシオの二人が顔を覗き込んでいる。
「わ……わたし……私……」
「復讐は何も生まない」
二人のワノトギは、すでに全てを見通していた。
「でも……私は父を……母を殺したあいつらを! 絶対に……許さない!」
このままではゼキアがトギ堕ちをしてしまう恐れがある――。
イオとルシオは、力ずくで彼女を拘束するべきだと判断し、能力を発動させようと構えた。
しかしそのとき、ごおっという音が空から鳴り響いた。三人が音のする方を見上げると、赤い炎が彗星のようにこちらの方へと向かってきた。
やがて炎は三人の頭上で止まり、ゆっくりと目の前に降りたかと思うと、やがて人の形となり、少女の姿となった。
その少女の目には、涙が溢れていた。
「フォルテナ、何があった」
「ベセナートが、ベセナートがトギ堕ちしたの」
「なんだって!? あのベセナートが!?」
「そう。センナの街が、すべて……」
そう言ってフォルテナと呼ばれた少女は泣き崩れた。イオとルシオは険しい顔で、お互いを見つめ合ったままだ。
「トギ……堕ち……?」
沈黙を破り、ゼキアが問いかけた。
「ああそうだ。禁忌、おそらくお前が今やろうとしていたことをやったワノトギがいる。俺らはそいつを……討ちに行く」
「お前も来い。トギ堕ちということがどうゆうことなのか、その目で確かめるんだな」
「さあ、行きましょう」
イオ、ルシオ、フォルテナの三人は、かつての友を滅するため、センナへと歩を進めた。ゼキアは暫くその場に立ち尽くしていたが、すぐに彼らの後を追いかけていった。
「待って! 私も行く!」
復讐心にかられたワノトギは最期、どうなってしまうのか――それを自分の目で確かめるために。
<了>
ゼキア、受難の日
なかむむむ/作