Muscadine Chronicles
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神明暦六○○年のことである。
※※
枯れ細った男を背負い、青年は山道を歩く。
背負われるのは薪の束より軽い男でも、それを背負って険しい山道を進めば、息は切れ汗をかく。
細身だがのっぽの青年は、体力も村の若者たちの中でもある方だが、自らしがみつく力も失ったった人間大の荷物を背負いながら行く道は、遠く、険しい。
目的地は、遥か先。
間に合わないとわかっても歩みを止められない。
背負う男の体が、もう随分と前から熱を失っていることに、気付かないわけがない。
それは二人を濡らす霧雨のせいだけでなく。
もう、熱を生み出す生命の機能が働いていないから。
けれど、わかったところで歩みを止められるものでもない。
選んでしまった以上は、背負う男をサンセベリア神殿へといざなうまでは。
止まれない。
目的地は、遥か先。
もう、間に合わないのだ。けれど、歩みを止められない。
※※
思えば。
青年は、何かを選ぶということをしてこなかった。
肥沃な大地広がるサンセベリアの丘陵で産み落とされ、産婆も兼ねたコトトキに取り上げられ、羊飼いの息子として祝福を受けてから、全ては決まっていた。
朝起きてから眠りにつくまでの仕事も生活も、全て父を真似た。
母より、毎日「神霊より与えられた己の役割を懸命に果たすことこそが幸福」だと聞かされ続けた。
子供同士で遊ぶ時だって、ガキ大将の後ろにいつもついて歩いた。
幼馴染の娘と添い遂げることになると、運命が轍を残している。
何かを選ぶ必要がなかった。
村で一番体が大きくなって、村で一番穏やかで強い若者となって、幼馴染の娘と一緒にいる時間が多くなって、体が急に弱り始めた父の代わりに弟達を連れて羊の番をして。
この広いサンセベリアを見守るという神霊シャンケルに祈りを捧げ、日々を過ごしていた。
十五の齢に。
村長に頼まれ、山を隔てた向かいの村に使いに出た時のことである。
その使いの帰り、夕暮れの空は雲行きが悪く、陰が濃くなってゆく山間の道で。
死にかけの男を見つけた。
襤褸を纏った、痩せこけた、枯れ枝のような男。
男は死霊に冒されていた。
死霊とは、未練や強い感情を残して死んだ人間の魂は彼岸へと渡らず、現世にとどまりまだ生きている人間にとりつき、「悪さ」をするモノ。
さんざん、村の老衆から聞かれてきた。
死霊につかれた者は憑り殺される前に、この土地の真ん中に住む「器様」に助けていただくしかない。もしくは……。
どうすればいいかなどわからず、とりあえず死霊に魅入られた男を介抱した。
体中に、赤い、赤い、蚯蚓腫れが広がっていた。視えない獣の爪で引っ掻かれているのか。
男に加減を問うと、礼を一言述べた後「自分を置いて逃げろ」とかすれた声で警告する。
「俺は死霊にとりつかれている。もうすぐ呪い殺される」
※※
曰く。
自分は、盗賊である。
自分では稼げない、つまらない男であった。
何も生み出せない。そんな自分では駄目だと一念発起しても長続きせず、自堕落な日々を過ごしてきた、と。
そのうち、人から盗むことを始めた。
とても楽だった。
そのうち、人を襲って奪うようになった。
盗むよりも、楽だった。
そのうち、人を殺してしまった。
働いて手に入れたきた時よりも多くの金を手に入れるようになった。
そうして、気がついた時には後戻りできないところまできていた。
今、自分の身についている死霊は、俺が最後に殺した男だ。
旅人だった。故郷に家族もいたのだろう。何かの用事で自分の故郷を留守にせざるを得ず、妻に子を託し、子に妻を任せ、務めを果たしに旅だったのだ。
幾年月の末に、故郷に帰る旅路に俺が殺したのだ。
俺が愚かだったのだ。
いつの間にか、俺は殺しを楽しむようになっていた。
人をいつものように刺して、息も絶え絶えの男の前で男の荷物を奪い、中身を物色した。
きっと、家族への土産だったのだろう。小さな小さな貝殻と、珊瑚の飾り物。ああ、海辺の村か。
それに触れた時の、男の形相が、必死で。命の全てを振り絞ったような鬼面をして迫ってくる男に。俺は何度も刃物を突き立てて。
気がついた時には男の情念は黒い靄となって、俺の体に吸い込まれていった。
話に聞いた、死霊という奴だ。
見ろ。俺の両腕に走る赤い掻き傷の後。これが死霊が俺を責め立てる傷だ。
ああ、これは俺の全身に張り巡らされているぞ。
痛い。
痛む。
痛いんだ。とても、とても痛い。
俺は三日三晩のたうちまわった。
のた打ち回りながら、俺は我に返った。
今まで、何をしていたのだろう。
俺にだって父親もいる。ロウレンティアで大工をやっていた。今もやっているのだろうか。母親もいた。毎日毎日「神霊より与えられた己の役割を懸命に果たすことこそが幸福」だとしつこく言い聞かせてくるんだ。
俺はその言葉が大嫌いだった。
神がなんだ。俺は、俺の生きたい道を選んで幸せになってやる。
そう思って親爺の後を継がず、夢見て、家を出た。
けれど、俺はなりたいものになれなかった。
……俺は、神官になりたかったんだ。
笑っちまうだろう。神様なんか大嫌いだって言ってる奴が、神様に仕える身になろうなんて……。でも、なりたかった。いつも偉そうにふんぞり返って俺達を見下してる神殿の連中を、見返してやりたかったんだ。
でも駄目だなあ。三回試験に墜ちてからは、勉強もしなくなって。
そうして、毎日ふらふらしているうちに懐には何にもなくなって。
……。どうにもひもじくて、みじめで。
たまたま神殿の修繕に来ていた、大工の弁当を盗んで食べた。
悲しいくらい、うまかった。
一回だけ、一回だけ。
そう思ったのに、気が付いたら俺は他人から奪うことで生きてきたんだ。
そうして、土地を流れて、ふらふらとここまでやってきた。
そして、ここから、歩いて三日ほどの場所にある、森の中で、俺は! 死霊に!
ああ、俺の人生はなんて、なんてどうしよもないんだ!
これが、俺の与えられた役割なんだろうか。
そう考えると、悲しくて、悲しくて。
傷の痛みにのたうちながら、考え続けた。
そうして、痛みに慣れてきたときに、俺はもう一度神殿を目指すことにした。
懺悔に? まさか。神霊は人の告解なんぞ聞きやしない。
俺にとりついた死霊を、払うためさ。
このままだと、この死霊は、俺が殺した男に殺される。それはそれでもいい。けれど、その後が問題だ。
人を殺した死霊は、悪霊になり「悪さ」を続ける。
自分を殺した相手を憑り殺すなんて生易しいもんじゃない。近くにあるモノ全てに悪をなすだろう。
俺のせいで、だ。
それだけは、止めなくちゃいけない。
だから俺は神殿に行くんだ。
そう思って、立ち上がって、俺は歩き始めた。
神霊に、シャンケル様に、俺が殺してしまったこの男だけでも救っていただくために。
そう思ってなんとかここまで来たのだが……。
ああ、知らないのか。神霊には、人にとりついた死霊を浄化して人からはがす力があるのさ。ただ、一度人を殺して悪霊になってしまったものは、神霊にも清められない。ワノトギによって滅する以外には……。
お前、ワノトギを知らないのか? ああ、知らないよなあ。
ここは、いい土地だ。俺なんかがいなければ、死霊なんて生まれない、ワノトギが必要ない、ところだなあ。
ああ。
もう自分では一歩も歩けない。
なあ。
頼みがある。
俺はもうすぐ死ぬ。あと一晩もつかもたないか。
もうすぐ、俺を食い破って悪霊が生まれるのだろう。
頼む! 神殿にこのことを伝えてくれ。
ここに、死霊がいることを!
そうすれば、ナトギを伝って神霊器様が近くにいるワノトギをここへ連れてきてくれるはずだ。
そして、お前はこのあたりの村々に、全てが終わるまでこの山間に近づかないように警告してまわってくれ。
頼む。これ以上、俺のせいで人に死んで欲しくない!
頼む!
※※
涙を流し、青年の腕を男は掴んだ。
はかない力で。
一つ、訊かずにはいられなかった。
「私の名は、ギョクロ。羊飼いザクロの息子。あなたの願い、確かに聞いた。だが、一つ伺いたい。あなたのせいでこれ以上人に死んで欲しくないと言った。だが、あなたが今から死んでしまうのは、その願いに反するのではないか?」
男は、呆れたような、怒ったような、泣きそうな顔をした後、首を横に振った。
それにも関わらず。
枯れ細った男を背負い、青年は山道を歩く。
薪の束より軽い男でも、それを背負って険しい山道を進めば、息は切れ汗をかく。
細身だがのっぽの青年は、体力も村の若者たちの中でもある方だが、自らしがみつく力も失った人間大の荷物を背負いながら行く道は、遠く、険しい。
目的地は、遥か先。
間に合わないとわかっても歩みを止められない。
背負う男の体が、もう随分と前から熱を失っていることに、気付かないわけがない。
それは二人を濡らす霧雨のせいだけでなく。
もう、熱を生み出す生命の機能が働いていないから。
けれど、わかったところで歩みを止められるものでもない。
選んでしまった以上は、背負う男をサンセベリア神殿へといざなうまでは。
止まれない。
目的地は、遥か先。
もう、間に合わないのだ。けれど、歩みを止められない。
ギョクロは、今まで選ぶということをしなかった。
しなくても生きていけた。
きっと、己の役割というもの、自分はすでに持っていて、その通りに生きていけばいいのだろうと、考えていた。
けれど、今日、突然選ばされる時が来た。
罪の懺悔をし、呪い殺されるのを待つ男。
彼の願いを聞き入れ、被害が広がらないように駆けることもできた。
しかし青年が選んだのは、今すぐ神殿まで彼を運べば、死ぬまえに辿り着き、救いを得られるのではないか? という希望。
神殿までの距離は地図上では1日半。健脚の彼ならば、急げばなんとかなるかもしれない。
目の前の、山一つを無視すればである。
青年は神霊の世界の仕組みを理解していない。
ただ、そういうものがいて、それに祈り尊べばいいもの、程度の解釈である。
だがそれだけではないらしく、まさに今その神の奇跡が必要な事態らしい。
だから、少し迷った後。選んだのだ。
もし、このまま間に合わず彼が死ねば、そこには青年とそれに背負われる亡骸と全てに害なす悪霊が生まれるのだということ。
間に合わなければ、自分が死ぬ。
それは、おぼろげながら理解できた。
そうなれば、きっと父も母も悲しむだろう。息子の分別のなさに怒り嘆くかもしれない。
三年後夫婦になることが決まっているあの娘は、どうなるのだろう。あれはあれでちゃっかりしているから、別の男と幸せになってくれるのではないかと思う。
もし自分が死んだとしても、みっちり仕込んだ弟達が父の遺した羊達を世話してくれるから 問題ない。
そこまで考えて、自嘲する。
「自分が死んだ後のことを憂いてどうするんだ」
そして、呟きを背負う男に訊かれたかと気遣うが、どうやら寝入っているのか、反応はない。
寝入っている?
そこまで考えて、嗤うしかない。
彼がもう事切れていることなんて、理解している。
青年は、両腕に激しい痛みを感じていた。
亡骸を背負うているので、確認はできないが、きっと己の両腕には、彼と同じ赤い赤い蚯蚓腫れが、それも彼とは比ではない深さと長さで広がっている。
何しろ、自分を呪うのは、人一人すでに殺している悪霊様だ。
名も知らぬ、家族を愛した人の、情念と無念の塊だ。
逃げるべきだろうか? 逃げるべきだった。
けれどそれはできない。ここまで来たらもう、逃げられない。
青年は、何故この道を選んだのかと自問する。
答えは簡単だった。
羨ましかったのだ。
自らの生き方を選んだ男が。
ことの善悪は別として、唯々諾々と家族の言うことを聞いて生きてきた自分にはできない人生だったから。
自分も選びたかった。そういうことだと、結論している。
結果、死ぬことになるかもしれないといリスクはわかっていた。
わかっていたが。
思ってしまったのだ。
ここで、神霊と死霊と、この人の無念に関わることこそが自分の役割だと。
青年は、いるかどうかもわからない背後の悪霊に向けて、ぼそりと。
「私が殺されることで、少しでもその無念が和らいでくれたらな」
そう、呟いた。
何か、後ろではためいた気がして。
両腕に走る激痛が威力を増して、そして。
※※
「ふざけんなよ、このクソボケがぁ!」
ぶん殴られた。
思いっきり、全体重と加速をつけた右パンチが、顔面に炸裂した。
何が起きたのか、わからない。
亡骸を背負い、山道を汗かきながら歩き、両腕の焼けるような痛みがピークに達した瞬間に。
少女が一人、空より舞い降りた。
白絹の衣服に身を纏った、薄紫色の髪をした。
その瞳は、吸い込まれそうなほど、黒く、黒く、黒い。
彼女は、青年の姿を捉えるや、その背中に背負う者、その背後に覆い被さるモノにも視線を一瞬動かした後。
上記の台詞を述べて、青年を殴り飛ばした。
青年は雨を吸って半ば泥と化した土に体をツッコミ、背負っていた彼を放り出してしまった。
ジンジンとしびれる鼻の頭を押さえながら、誰何しようとしたが、それよりも早く少女の(その華奢な体からは想像もできない)怒声が夜の森に響いた。
「ふざけるな! ナトギを伝って緊急事態だって言うから飛行花まで使って急いだのに! もう手遅れじゃねえか! このクソボケ何悪霊なんか背負って歩いてやがるさっさと下ろせ死にてえのか馬鹿野郎」
そして自分が舞い降りた上空に向かって(まるでその中空に誰かいるかのように)続ける。
「ガシンムラ降りてこい! すでに悪霊化しているぞ。 生存者がいるから保護しろ! ついでにそこの死体も巻き添えくらわないように隔離しとけ! ……後で埋葬する」
テキパキと誰かに声をかけ、大股で青年に近づき、頭をむんずと掴む。
何をするのかと訊く前に、彼女の言葉は続く。
「黙ってろ、お前の記憶を読んでいる……。ふむ、そういう経緯か。なるほどこれは強い情念を残しているな、うん。……このクソボケぇ!」
何かを一人合点した後、もう一度ぶん殴られた。
「お前が余計なことした結果じゃねえか! いたずらに動かさなければ俺達が早期に発見して神殿に連れて行けたかも、とか。もし山中で悪霊化しようものなら浄化が面倒になる、とか! 色々言いたいことはあるが!」
胸倉を掴まれた。
「お前、助けられないのがわかってて、助けようとしたな。その上で、自分が死ぬことを許容しようとした。そんなものを、選んだとは言わせねえ。そんなものは、与えられた役割じゃねえ。助けたいなら、それに見合う力がいるんだよ。そしていくら力を手に入れても助けられないことの方が多いんだよ今回みたいにな。それでも、俺は歩みを止めない。俺は、選んだからだ!」
襟元を掴んだ手は放された。彼女はすでに、青年を見ていない。
虚空に浮かぶ、青年には見えない何かを見つめている。
青年にもわかる。
そこだけ、空気が歪んでいる。
そして、その方向を見るほどに、いつの間にか全身に走る蚯蚓腫れが痛む。
そこにいるのだ、悪霊が。
「大分冒されてるようだが、まだ憑かれてはいないようだな。今ならこいつを滅することができれば、お前の命だけでも助かるだろう」
そして、少女は上着を脱いだ。
驚くよりも前に、驚愕する。
少女の白い肌。
美しく滑らかな上半身裸に、美しく滑らかな上半身裸に、青年の赤傷とは異質な、紋様の如く広がる戦傷(いくさきず)。何故脱いだのかはわからない。
「この悪霊は、受け入れるのに骨が折れそうだ……。トギ・ナルカミラ! 気合い入れろ!」
突風が吹き、少女のオーキッド花弁のような美しい髪が逆立ち。
青年の意識は失われた。
※※
眼が覚めた時には、すでに朝。
衣服を整えた少女と、始めてみる図体のでかい男(おそらく、ガシンムラとはこの男だろう)が目覚めを待っていた。少女は告げる。
「悪霊は滅した。しかし、お前の体にはまだ死霊がいるぞ」
両腕は痛む。そう、あの青年の背で事切れた男の情念もまた死霊を生み出した。
「どうする?」
答えは決まっている。けれど、彼女はあえて訊いているのだろう。
答えを、選ばせるために。
青年は、はっきりと口にした。
「神殿に行くよ。死んでもいいなんて思わない。しなければならないことを、する」
「いい子だ、坊や」
「坊やじゃないよ。私はギョクロ。羊飼いザクロの息子だ」
「そうかい坊や。俺の名はワノトギ・ゴウテツヤマクマゴロウ。隣のこいつはワノトギ・ガシンムラ。同道する義理はないが縁はある。さあ、行くぞ」
それ、本名なの? とは訊けぬまま、青年は一歩を踏み出した。
神明暦六○○年。ある雨上がりの朝のことである。
伊藤大二郎/作