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「神霊様、神殿を降りるお許しをいただきたいと存じます」

 慇懃に切り出すと、モヴィヌスの花のような薄紫色の目が大きく見開かれた。少年と青年の間といった年頃の整った顔が呆けた表情を見せて、アビリオの口元に思わず笑みが刻まれる。このようににやりと笑うのはどれほど久しぶりのことだっただろう。神霊の眷属となって以来二十年ほど経つが、食欲、性欲などのもろもろの欲求や激しい感情の波立ち――人間らしさが彼から失われて久しい。だが、尊い神霊ヲン=フドワ様を宿した器を呆気に取らせることに成功したとなれば、溜飲が下がる思いをしても良いだろう。

「……降りて、どこへ行くというのだ?」

 モヴィヌスの薄紫の目が茫洋と窓の外に向けられた。そこに広がるのは、霊山マスカダインの豊かな緑。ロウレンティア地方を加護する五体の神霊の御座所であるこの神殿は、岩肌と木々の間に溶け込むようにして建てられている。風を司る神霊ヲン=フドワが住まうこの一角は、木々の間や滝の裏を通った芳しい風がよく通り、花の香りや鳥の声を運ぶ造りになっている。

 アビリオがすぐに答えなかったことで風が運ぶ音と香りが室内をよく満たした。もっとも、アビリオもモヴィヌスも常人の感覚を失っているから、心地良いのかどうかの区別がついているかはよく分からないが。

「――アビリオ」

 モヴィヌスが十分に不安を覚えたようなのでアビリオはまた笑い、やっと神霊の下問に答える。

「ムヨルゼの両親ももう年老いた頃だろうと思いまして。最期に姿を見たいと存じました」
「ああ」

 ロウレンティア屈指の大集落――そして人であったころの彼らふたりの故郷でもある――の名を挙げると、モヴィヌスの薄紫の目が瞬いて、端正な唇が安心したように微笑みを描いた。

「ムヨルゼならば、水路を使えばひと月かからずに往復できるな」
「ええ」

 ひと月どころかその半分の日数でも往復は可能だろうが、アビリオはおとなしく頷いた。モヴィヌスが挙げたひと月という時間が何を意味するかよく分かっていたからだ。

 眷属とは神霊の器になれなかった者の成れの果てだ。神の存在に触れたことにより美貌と人の数倍にあたる寿命を手に入れた代わり、神霊の傍を離れては生きられない。一たび神殿を去れば、ものを食べても力にならず、やがて衰弱して死に至る。ひと月というのは、眷属が衰弱死に至る時間の上限だった。

 だからモヴィヌスは、アビリオは手遅れになる前に戻るのだと思ったのだろうが――それは、勘違いだ。

「ですが私は二度と帰りません。両親の顔を見た後は、海にでも出て――そこに、留まるつもりです」
「な――」

 神霊様が絶句した顔を、アビリオはうっとりとして眺めた。眷属である彼と同様に、神霊の器も常人とは心の在り方が変わって激しく感情を揺さぶられることは少なくなる。このように顔を歪めて声を荒げるのは、前代未聞と言っても良いのではないだろうか。

「だが、それではお前は――」
「ひと月過ぎる頃にはマスカダインの大地に還っておりますね」

 驚きと非難の視線を心地良く受け止めながらあえてさらりと答えると、モヴィヌスの顔が一層ゆがんだ。

「お前は私の眷属だ。お前がいなくなれば――」
「身の回りのお世話であればマッギャウもおりましょう」
「あの者は寿命が違う!」

 神霊の器に選ばれた者は二百年、器になり損ねた眷属は百五十年、元の寿命に加えて生きることができる。ひたすら神殿に留まって変わりのない日々を過ごすことが果たして生きていると言えるのかどうかは分からないが。
 現在神殿にいるヲン=フドワの眷属は、アビリオともうひとり、マッギャウという男。モヴィヌスとアビリオが同じ時期に神霊の器になるべく神殿に呼ばれたのに対して、マッギャウはさらにその三十年前に神霊に触れて眷属になった。器と眷属の寿命の違いを考えても、どうしてもマッギャウはモヴィヌスよりも先に死ぬ。だが――

「それは私も、です。どのみち器の代がわりまでお仕えすることはできません」
「だが――」
「マッギャウの寿命が尽きるころには次の器を探し始める時期ではありませんか? ならば新しい眷属を得られることもあるでしょうし、そうでなくても、他の神霊様の眷属をお借りすることもできるでしょう」

 事実、この神殿におわす神霊のひとり、ネママイアは今は眷属を持っていない。だから金属を司る神霊ユシャワンティの眷属がふたりの神霊の身辺の世話を受け持っている。十歳になるかどうかの姿をした少女が神殿内を行き来するのを、アビリオもよく目にしていた。

「お前は他の眷属とは違う!」

 それはアビリオも知っていたし、モヴィヌスの悲鳴のような声は耳に心地良かった。だが、あえてはっきりと首を振る。

「同じです。神殿に閉じ込められた他の眷属たちと同様に、器になり切れず人ならざる者になってしまった。でも、神霊様にとっては民と同様に加護し見守る世界の一部であって欲しいと思っております。この哀れな者の願いを聞き入れてくださいますね?」

 モヴィヌスは悲痛な表情でしばらく黙っていたが、アビリオが予想していた通り、ついに小さく頷いた。ロウレンティアの者が広く信じていることと違って、神霊は人にも眷属にも命じることはない。ただ寄り添い見守り、ごく稀に助言をするだけの存在だ。固く決意した者を、意に反して神殿に留めることなどしないだろう。

「……分かった」
「ありがとうございます」

 アビリオは勝ち誇って笑った。神霊の器の悄然とした表情。これは、見ものだ。話が終わった証に深く頭を下げて退出しようとすると、背中を呻くような呟きが追いかけてきた。

「お前は俺を見捨てるのか……」

 俺。モヴィヌスは私ではなく俺と言った。その一事に、久しく高鳴ることのなかったアビリオの心臓の鼓動が早まる。ヲン=フドワの器としてでなく、共にムヨルゼで生まれ育った幼馴染としての言葉を引き出すことができたのだから。

 ここで振り向いてしまえば相手を甘やかすことになってしまう。だからアビリオは聞こえなかったふりでビーズを連ねたカーテンを潜ってモヴィヌスの部屋を辞した。胸中の呟きも、もちろん声に出すことはない。

 お前の方が先に俺を捨てたくせに。



もの言いたげな――あるいは責めるようなモヴィヌスの目を無視して、その後数日をかけてアビリオは旅立つ支度を整えた。といっても荷物自体は大したことではない。眷属は下界のものを口にしても活力を得ることはできないから、食料はいらない。明らかに神霊オン=フドワの薄紫色を髪と目にまとい、常人離れした美貌を誇る彼は一目で眷属と知れるから、宿や船や馬を使うために対価を要求される恐れはほぼない。だから路銀もさほどいらないだろう。恐らくは乾きだけは耐えがたいだろうから水筒と、幾らかの着替えを包めばそれで終わりだ。

 他の神霊たちもその眷属たちも、やはり彼の選択に口出しをすることはなかった。神霊の住まう真なる神殿とは別に人が建てた神殿もあるが、そこの神官たちの方が面倒だったかもしれない。眷属たるアビリオも一応の敬意を受けてはいるとはいえ、それは神霊あってのこと。あくまでもかつて一度だけ、一瞬とはいえ神霊を身に宿したことがあるということへの敬意であって、彼自身に対してのものではない。神霊様によって生かされているくせに務めを放棄するとは何事か、と。苦言を呈する者もいたが――結局は生身の人間の言うこと、真なる神殿に引きこもっていればいらぬ説教に時間を取られることもない。

 明日にも旅立つか、と思っていたある夜のこと――アビリオの部屋を訪れる客があった。ヲン=フドワに仕えるもうひとりの眷属、マッギャウだった。

「気は変わりませんか……」
「はい。ご迷惑をおかけしますが」

 眉を顰めてアビリオの表情を窺うマッギャウは、背の高い壮年の男だった。神に触れた者として、眷属の例に漏れず整った姿をしている。彼もこの男も若くして眷属になったが、例えば老齢で眷属になった者は皺だらけの顔でも美しいと見えるのかどうか、アビリオは密かに気になっている。あるいは自由の利かない身体で百年余の寿命を得たとして、その長い年月に暗澹とするのではないのだろうか。今のロウレンティア神殿にそのような老齢の眷属はいないし、いたとしても直截に尋ねることなどできないのだろうが。

「私のことは構いません。ですが、ヲン=フドワ様が――」
「神霊様が眷属などのことに悩まれることはないでしょう」
「あなたは他の眷属とは違う」

 マッギャウはモヴィヌスと同じことを口にして、アビリオの口元を緩ませた。

「あなたにも、そう見えますか?」


 アビリオとモヴィヌスは共にムヨルゼの集落で生まれ育った。アビリオの家は布帛、モヴィヌスの家は装飾品を扱う商売をしていて、親同士も商売の界隈が近いということでほとんど生まれた時からの付き合いだった。時に悪戯をしたりやんちゃをして怪我をしたりもしつつ、親の手伝いをして――普通の子供として過ごしていたはずだと思う。ただ、ふたりとも天気の変化を言い当てたり、親の店の客の身体の変化――女性の妊娠だとか病の兆しだとか――を、当人よりも早く気づいたりして、ナトギ様に好かれている子たちだ、などと言われたりもした。だから彼らはおおむね大事に手厚く育てられたのだろう。
 そして彼らがナトギの召命によって神霊の器候補に選ばれた時も、親を含めた周囲の者たちは慶び畏まると同時にやはり、さすがだ、といった表情をしていた。当のアビリオとモヴィヌスはどれほどの誉れか、家族と永の別れをするとはどのようなことか、今一つ把握していなかったが――神殿まで赴くのは気の合う友人との小旅行のようなもので、気楽に喜んでいた気がする。

だが結果を見れば。旅行どころかふたり揃って神殿に留まることになった。それも、モヴィヌスは神霊の器、アビリオはそのなり損ないの眷属として、という立場の違いを受け入れなければならなかった。アビリオはかつての幼馴染に仕えることになったのだ。誰もが浮世離れして静謐に包まれた神殿で、気心の知れた相手が傍にいるのを、モヴィヌスは喜んでいるようだったが。



「……ヲン=フドワ様はあなたに親しみを感じておられるようです。他の眷属とは違う。私は先代からお仕えしていますが、神霊の器といえども人としての記憶を持ち続けているのですよ」
「そうなのでしょうね」
「それを分かってなお、お心は変わらない……?」

 マッギャウがいてくれて良かった、とアビリオは思った。神霊は、他者の選択には関与しない。俗世の神官が眷属の説得などおこがましい。他の神霊の眷属も、ヲン=フドワとその眷属の関係に口出しするのは差し出がましいと考えるだろう。
 だが、同じ神霊の眷属というマッギャウの立場ならば、アビリオに立ち入ったことを聞くのもあり得るだろう。アビリオも思うところを打ち明けてもおかしくない。……モヴィヌスも、そう考えるだろう。

「私とモヴィヌスが神殿に来た時、あなたはすでに眷属でしたね。神霊を継ぐ器として選ばれ――だが失敗した」

 神霊の器を呼び捨てたからか、失敗呼ばわりしたからか。あるいは話の流れが見えなかったからか。マッギャウは整った眉を寄せ、それでも頷いた。

「ええ。あなたと同様に」
「人としてあなたがどう生きてきたかは詳しくは知りませんが……きっと家族も仕事もあって、愛され敬われていたのでしょう。器候補に選ばれた時も親族や集落がこぞって祝福したのでしょう。それが失敗して、家族のもとへ帰ることもできず、後から表れた若造があっさり器を引き継いだ――それを、どのように受け入れられましたか?」

 あえて挑発的に問うてみると、マッギャウは明らかに不快げな表情で口を開いた。神霊のみならず眷属も、意外と感情が残っているのかもしれない。

「喜ばしい、としか。ダフォディル地方のチム=レサ様のように、器の引継ぎができずに神霊が見失われるようなことがあれば、霊の不均衡は人の世にも及びます。私では不適格だったからこそ、器の代替わりを見届けることができて安堵したものです」
「なるほど」

 マッギャウが嘘を吐いているとは思わないし、まして愚直だと嘲るつもりも毛頭ない。神霊の器が世界の安定に必要なことは、アビリオも良く知っている。不適格だったとはいえ、神霊は一度は彼の身体にも降りた。その時に、世界の理の一端のようなものを、彼も垣間見ることができているのだ。だが――

「私は、モヴィヌスと同時に神殿に来たのです。私の身体から離れた後、ヲン=フドワ様はすぐにあいつの身体を器となさいました」
「…………」

 彼が言わんとすることを察したのだろうか。マッギャウの顔は顰められたままだったが、視線には一抹の憐れみのようなものが混ざった気がした。憐れみはアビリオが望むことではない。だが、この先を続けるためには必要な流れだった。

「私だとて神霊も器も必要なことは分かっています。器の引継ぎが成功する前に、失敗した眷属が生まれるのも。何か必要があってのことなのでしょう。それこそ器ひとりで長い年月を過ごすことは難しいのでしょうから。
 だが、どうしても順番が逆だったら、と思わずにはいられないのです。モヴィヌスが器になると決まっていたのだったら、どうして私は呼ばれたのです? 仮にあいつが先にヲン=フドワ様を受け入れていたなら、私は人のままで親元に帰ることができたのに。いや、そもそも――私とあいつは年頃も背丈も力のほども同じ、霊力が高くナトギに親しんでいたのも同じです。私とあいつで何が違ったのか、なぜ運命が分かれたのか――そう考え続けることに、疲れてもおかしくはありませんか?」

 滔々と語るうち、マッギャウの表情には憐れみに加えて理解の色が広がっていく。すべてが同じように見えた幼馴染なのに、片方は器として敬われ、片方は眷属として影のように生きる。そのことへの嫉妬と疑問。非情に分かりやすい筋書きだろうから当然だ。
 
「……モヴィヌス様も、同じように思召していらっしゃるかもしれませんが……」
「はい。器が過ごす年月の方が眷属よりも長いですから。囚われの時間が長いと思うかもしれません。その点は私には分からない。そして同様に、器にも眷属の思いは分からないものでしょう」

 マッギャウの言葉も、もうアビリオの翻意を期待したものではなかったのだろう。現に彼の反論に対して更なる説得が試みられることはなかった。ただ、溜息のような吐息とともに呟きが漏らされる。

「――ミラルディと話をしてみては?」
「ミラルディ? ユシャワンティ様の眷属の?」

 その名は、偶然にもというか彼が複数の神霊に仕える者として思い浮かべた少女のものだった。少女といっても眷属として生きた年月はアビリオよりも遥かに長いのだが。男女の差、年齢の差、そしてそもそも仕える神霊が違うがゆえに、同じ神殿に住まうとはいえ特に深く言葉を交わしたことはなかったはずだ。

「ええ。私と彼女は同じ頃に神殿に呼ばれ――眷属になりました」

 縁の浅いはずの者の名に首を傾げるアビリオに対して、マッギャウはあっさりと頷いた。

「だから何となく察するものもあるのですが。彼女も、眷属であることに倦んでいるようです」
「そうなのですか」
「私にはあなたの考えが分からない。だから止めることもできないのでしょう。ですが、あるいは彼女なら――」

 面白いな、とアビリオは思った。マッギャウが他の神霊の眷属と交流があったことも、彼の他に眷属としての在り方に疑問を持っている者がいたことも。神殿に留まり続けたならば知る機会などなかったのだろうから、これもある種の収穫と言えるのだろうか。神殿での生活がいかに代わり映えのしないものか、その証左な気もするが。

「そうですか。それでは出発前に会ってみても良いかもしれません」

 とりあえずアビリオはそのように答えてマッギャウを部屋から追い出した。

 ミラルディという眷属の思いは興味深い。が、マッギャウにアビリオの思いが分からないのと同様に、彼と彼女はお互いに理解できるものではないだろう。幼い少女の姿で百年以上を神殿に閉じ込められることになった者の思い――想像もつかない。
 自分自身が選択に口出しされないことを望むならば、他の者の考えに深入りしてはならないのだろう。そしてもしもミラルディも神殿を離れる決意をした時は、彼女の選択が妨げられなければ良いと思う。



 なのでアビリオは翌朝、宣言通りに荷物を抱えて神殿の入り口にいた。神霊としては非常に珍しいことに、モヴィヌスが自室を離れて見送りに――あるいは最後の瞬間まで彼が思いとどまることを期待していたのか――来てくれたのは嬉しかった。

「どうしても、行くんだな……」
「ああ」

 神殿を去るからには、彼はもはや眷属とはいえないのだろう。そう考えて、アビリオはあえて砕けた言葉遣いをした。そうすると、モヴィヌスの顔がくしゃりと歪んで泣きそうな表情で笑った。

「ムヨルゼに着いたらおじさんとおばさんによろしく。……あと、もし生きていたらうちの親にも」
「……分かった」

 モヴィヌスの口調も砕けて、昔の、幼馴染同士のそれになっていた。それが、アビリオの胸に不可思議なさざ波を生んで――声が泣きそうになるのを、必死にこらえる。

「じゃあ、な」
「うん」

 振り返ってはならないと心に決めていたから、最後に神殿の姿を仰ぎ見て目に収める。岩肌と木々の間に溶け込むように造られた神霊の住まう聖なる家。まがりなりにも二十年の間、彼の棲処であった場所。それから、目の前に佇むモヴィヌスの顔を、目に焼き付けて。
 無言のうちに目で礼をすると、アビリオは神殿に背を向けた。



 マスカダイン山を下りながら思うのは、この道を上った日のこと、器候補として神殿に呼ばれた日のことだ。そして一瞬だけ触れた神霊と、神霊が見て感じる世界のこと。

 ヲン=フドワが彼の身体に入った瞬間、世界が限りなく広がった気がしたのだ。海を越えて世界の全てを見通し、さらに時を越えて過去も未来もあまねく知ることができたような。その知覚は物質の世界だけでなく、霊の世界にも及んで、この世界の成り立ちや死者の行き先、生命が巡る様までも分かったような気がした。気がした、というのは、その悟りは神霊が彼から離れると同時に夢のように喪われてしまったからだ。アビリオに遺されたのは、その夢を見ていた間は確かにそれを知っていた、という認識だけだ。

 それにもうひとつ。過去の神霊の器たちの記憶もまた、彼は垣間見た。漁師もいれば農夫もいたし、商人もいれば職人もいた。ほんの子供の時に選ばれた者もいたし、母親や老人、恋人がいた者もいた。老若男女を問わず、神霊を宿した者たちの記憶は神霊に溶けて次の器へと引き継がれていったのだ。
 その記憶も、今のアビリオには漠然とそんなものがあった、としか覚えていないが。喩えるならば人が建てた紫の神殿の、膨大な記録を収めた書庫を絵に描いたようなもの、だろうか。どこに何の記録があるという表示を見ることはできるものの、その記録を絵から取り出すことはできない。ただ、その質量に圧倒されるだけ。

「はあ……」

 アビリオは立ち止まると息を吐いた。垣間見た情報の量を思って気が遠くなったのと、山道を下ることで息が上がったので。このように息を乱して汗をかくことも、二十年ぶりのことだった。
 神殿はすでに遥か後方だから、神霊の傍を離れた影響がもう出始めているのだろうか。ならば、彼の力が尽きるのも思ったよりも早いのかもしれない。旅路は、急いだ方が良さそうだった。
 とはいえムヨルゼの両親に会うつもりなど端からないから、旅半ばで斃れたとしてもそれはそれで構わないのだが。ただ、できれば最期は拓けた美しい光景を目にしたいから海を目指そう、という程度のことだ。
 器候補として送った息子のことは、両親はとうに忘れているだろう。いや、それは彼らが冷たいかのような言い方になってしまうか。彼らは、息子は神殿に差し出したものとして、それを名誉なこととして受け入れている。彼とモヴィヌスは今ひとつ理解できていなかったけれど、親たちは息子たちと二度と会えない覚悟をあの時すでに固めていたはず。それを今さら顔を出して――しかも神霊に仕える務めをなげうって――も、困惑させるだけだろう。

 だから、両親に会いたいなどというのは口実に過ぎない。そしてモヴィヌスへの嫉妬も、神殿を離れる本当の理由ではない。

 ヲン=フドワの過去の器の記憶を垣間見て、アビリオが何より圧倒され、後になって打ちのめされたのは、膨大な人生の記憶が、いかに神霊の奥深くにしまい込まれているかということだ。それぞれの器にとってのかけがえのない人や経験、絆の記憶も、欠けるところなく保持されていた。整然と、それこそ書庫に収められた木簡のように。――ただそこにあるだけで、顧みられることはなく。

 モヴィヌスがモヴィヌスとして生きた間の記憶も、やがて書庫にしまい込まれて二度と取り出されることはないのだ。いや、今でさえもそうかもしれない。神霊の器となったモヴィヌスはかつての彼らしさを失った。一日の大半を瞑想で過ごし、故郷のことや思い出話を語ることも次第に少なくなっていった。アビリオが死ぬと言い出して初めて、本当に久しぶりにモヴィヌスとしての言葉を聞くことができたのだ。

「お前の方が先に俺を捨てたんだ……」

 弾む息の合間に、歌うように口ずさむ。

 結局アビリオは、何も残せないで忘れられるということが嫌だったのだ。故郷の親や友人との絆は神殿に発った時点で断ち切られている。常人として帰ることがあったなら子供を持つこともあっただろうし、何かしら仕事で名を遺すことができたかもしれない。器も、神霊に同化することで次の器へと脈々とつながることができる。
 だが、眷属には本当に何もない。神霊に触れて変質した身体では子を成すことができず、神殿でただ変わらない日々を送った長い時の果てに朽ちるだけ。――だから、神霊の記憶に深く自分の存在を刻み付けてやろうと思ったのだ。人間の頃からの友が、自分のもとを離れて死を選ぶ――そのような記憶は、器に走った罅のように、忘れがたく消えることなく神霊の裡に刻まれるのではないだろうか。

 あいつ、今頃泣いてるかな……。

 自室に閉じこもって、モヴィヌスがどんな顔をしているのかと思うと、アビリオの口元は緩む。

 器と眷属とで運命が分かれるのは、モヴィヌスにもどうにもできないことだった。そんなことで幼馴染を失くすのはさぞ理不尽で辛くて悲しいだろう。彼が良く知るモヴィヌスなら、自分だけが選ばれたのを後ろめたく思わないはずはない。
 そこにつけこむのは、卑怯な気もしたけれど。でも、アビリオが自分のいた証を――痛みと悲しみの記憶としてだけでも――残すには、これしかないのだ。

 マスカダイン山を下りきると、アビリオとモヴィヌスの故郷へと導くサムブク川の豊かな流れが輝いていた。水の香りを懐かしく思いながら、アビリオは更に歩みを進める。かつてふたりで辿った道を光景を、なぞるために。

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