Muscadine Chronicles
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神明暦六八九年、冬のふた月(レサ・ルア)も末日。
今年は平和に終われそうで一安心――そう思いながら、神霊の眷属であるムヨッサはロウレンティア神殿内の廊下掃除に明け暮れていた。霊界と物質界の狭間の空間に座標を置くこの神殿の中での掃除は、人間が知る掃除とは少し違う。風化や汚れやカビを取り除くのが目的なのではなく、「掃除をしよう」という意識が穢れを取り除くのである。
他の眷属たちは他の場所を掃除しているため、ムヨッサはひとりだった。つい鼻唄なんて口ずさんだりもする。
そんな中、ふと背後からやってくる足音に顔を上げる。
「よお、お疲れさん。休憩するならいいものを持ってきたぞ」
気さくに声をかけてきたのは筋骨隆々の壮年の男。濃い色の髭や髪や肌に冴える、黄金色の瞳が特徴的だ。長い外套に積もった雪を見るに、外から入ってきたのが明白である。
箒を繰る手を止めて、ムヨッサは小さく笑った。
「誰も休憩するなんて言ってないがね。あと、雪を払ってから入ってきてくれたらいいのに」
「この私と神霊クヴォニスさまが訊ねて来たのだから今すぐ休憩にしてくれ」
男はニカッと歯を見せて笑う。そしてこちらの注意をちゃんと耳に入れてくれたのか、どこからか手ぬぐいを取り出して、自分の周りにでき始めている水たまりを拭き取った。豪快な見た目にそぐわぬ律儀さである。
「あんたは相変わらずだね、ムノエス」
同業者、すなわち彼も神霊の眷属だ。呆れつつもムヨッサは、大柄のムノエスの後ろにいるはずの人影に向けて敬礼をした。
「クヴォニスさま、ようこそいらっしゃいました」
「ありがとう。君の面貌を最後に拝んだのは八年前だった気がする」
ひょっこりと出てきた長髪の男は人間だったならば三十五歳くらいの外見だ。ムノエスに比べると随分と小さく感じるが、実際に目線はムヨッサよりもやや下にある。
「半年前だったかと思います」
「そうだっけ? 君は変わらないね。まあ、人型の生き物なんてみんな似たような外見だものね、手足の数も耳の形も。ネママイアのとこに行っていいかい。珍しい書物を見つけたものでね、彼女も楽しめそうだ」
「どうぞ。ご案内しま――」
「いいよいいよ、場所は気配を辿ればわかる気がする」
とててて、と控えめな足音を立てて人影が通り過ぎた。あまり質量の伴っていなさそうな音だった。
神霊クヴォニスの器となった元の人間が虚弱だったのかもしれない。人間ではなくなった今では、病気や怪我に苛まれることは決して無いが、かと言って体重が増えることもありえない。
「で、いいものってなんだい」
ムノエスに向き直ると、巨漢は「おおそうだったそうだった」と言って背負っていた荷物を下ろした。背負っていたのは、樽、だった。
「物質界の方のロウレンティア神殿に献上された品物の中に、いい酒があったんでな」
しゃがんだ体勢で樽に肩肘をのせ、得意げに笑うムノエス。
その台詞で、ムヨッサは全てを察した。ロウレンティア地方には、人間の信仰の中心地としての神殿と、実際に神霊たちの住まう「真の神殿」というものに分かれている。人間たちの神殿にたまに短期間出入りするムノエスは、人々が備える、神霊への献上品を持ち帰ったりする。ムノエスにのみ雪が付いていたのだから、まさにさっき戻ってきたばかりなのだろう。
「それを早く言わんかい。よし、休憩にするよ」
ムヨッサはさっさと掃除用具をしまった。
「お前さんが言わせてくれなかったじゃないか」
「わかってるよ、ごめんなさいな」
――神霊の眷属は、つまるところ神霊の器にならなかった(なれなかった、と形容した方が正確か)者たちの総称だ。
一度はその肉体に神霊の御身を降ろしたことがあるゆえに、普通の人間とは構造が違ってしまっている。物質界の食べ物や飲み物を口にすることはできても、それらを求めたり恋しく思うことはほとんどない。そもそも空腹という概念と無縁な身体なのである。
酒の入った樽を見た瞬間、懐かしさがこみ上げた。
まだ人間として生活していた頃のムヨッサは、姉夫婦と共にパン屋を営んでいた。
収入は多くなかったが、一月に一度くらいは近所の酒場で楽しい想いをしていたものだ。
たとえ恋しくなることは無くても。今でも酒が好きなのに変わりはない。
「ついておいで」
客間に移動して、二人してくつろぎ出した。
ムヨッサはワノトギから聞いた昨今の世間話を話し、ムノエスは人間たちのロウレンティア神殿で交わして来た雑談を語ったりした。
「いやぁ、しかし今年ももう終わりか……。神殿に召し上げられてから何年経ったか、忘れそうになるな」
黄金色の瞳に郷愁を漂わせながら、ムノエスは銀のゴブレットを手の内で揺らした。答える前に、ムヨッサはつまみものの落花生を一握りほど口に放り込んだ。
「いいんじゃないかい、忘れちゃっても。どうしようもないんだから。あたしもさ、姉さんや義兄さんが臨終した時に立ち会えなくて悔しかったよ……でもいずれは皆、同じこのマスカダインの大地に還る身さ。また共に在れる、それでいいんだ」
「そうだな、確かにな。今頃は孫たちが地上で頑張ってる。私は神霊さまを支え、この大地を潤すことに専念するよ」
「ああ、来年も誠心誠意、頑張るとするかい」
かちん、と音を立てて二人は双方のゴブレットを接触させた。それに続いて、それぞれぐいっとゴブレットの中身を飲み干す。
「うまいね……あんたがミィド好きだったのは、驚きだ」
ミィドとは、蜂蜜と水を混ぜて発酵させた酒である。甘く濃厚で大変美味だが、漢ならもっと強烈なブドウ酒を好むものかと思っていた。
「なんだ、意外だったか。だがうまいものはうまいのさ」
「ふ、違いない」
二人はのんびりと樽の酒を堪能しながら、落花生を食んだ。
気を緩みすぎたのだろうか、いつの間にか主たちが近寄ってきたことに、気付くのが遅れた。
入口に現れたのは、紫色の髪を編み上げた少女と、その少女と大して身長差が無い、長髪を一束にまとめた男。
「ムヨッサ、ここに居たのね。楽しそうな声が聴こえたから来てしまったわ」
神霊ネママイアが微笑みを浮かべて声をかけてきた。その手には、分厚い巻物が握られている。おそらくは神霊クヴォニスが持って来たという書物だ。
「ネママイアさま、並びにクヴォニスさま。お出迎えもせずにすみません」
己の失態を恥じて、床に肩肘張ってくつろいでいた姿勢から跳ね上がる。膝を揃えて背筋を伸ばし、一礼した。
向かいでくつろいでいたムノエスも敬礼の姿勢を取った。
「ねえ、それはいいから、混ぜてくれるかしら」
神霊ネママイアはこちらの失態など気に留めていないようだった。それは、神霊クヴォニスとて同じらしい。
「ムノエス! 何処にも虫が居ないよ! 由々しき事態だ」
「クヴォニスさま、此処は狭間の空間――神霊さまがたが許さぬ限りはどんな生き物も存在できませぬ。あなたさまの御座す区域には虫がおりましても、他の神霊さまが同じお考えとは限りません」
「いや、それくらいはわかっていたよ……。改めて言葉にしてくれてありがとう。しかし虫が居ないのでは可愛いタランチュラたんは今夜はお腹を空かせるしかないよ」
「タ――」
タランチュラですか、とムヨッサは言い出せなかった。
スラリとした八本の足に細やかな毛、灰色がかった黒い輪郭。掌にのせたら余裕ではみ出そうな大きさの蜘蛛が、神霊クヴォニスの結われた長い髪をよじ登っているのである。
正直、叫びそうになる自分に吃驚している。そうか、あたしは虫が苦手だったのか、と大昔の記憶が呼び覚まされる。
「クヴォニスは足の多い生き物が好きね」
一方で彼の隣に立つ色白の美少女は、なんとなしに蜘蛛に顔を近付けた。蜘蛛は身をよじって、神霊ネママイアから距離を置こうとしている。
「足が少なくても好きだよ?」
「そうね、あなたは息をするモノ全てを愛していますものね」
くすくすと楽しそうに笑って、少女は豆の詰められた大きな座布団の前で腰を下ろし、そこにもたれかかる。客間の小さな窓から、どっぷりと暗い空を見上げる。
「またしても年明けを迎えるわ」
「はい。今年もお疲れ様でした、ネママイアさま」
ムヨッサは主に向かって頭を深く垂れる。
「あなたも、嫌な顔ひとつせずにずっと尽くしてくれてありがとう。今年は死霊憑きや悪霊問題も例年に比べて落ち着いていたわ。わたしの欠片を抱えた者たちは、大きな不幸も無く過ごせたみたい」
「うむ、我の欠片の持ち主たちは皆、大事なく土の力を扱えたようだ。今年は大きな災害が訪れなくて我は嬉しいよ。命の灯火が一斉に消えるさまは、摂理とはいえ、しのびない」
手の上のタランチュラを見下ろし愛撫している神霊クヴォニスの表情は、慈愛に満ちながらも切なそうだった。
それを目の当たりにして、ムヨッサは感謝と畏敬の念に胸が締め付けられるのを感じた。
九柱の神霊あってこその世界、マスカダイン島である。
――神霊の恩恵が尽きた時が、島の死ぬ刻(とき)――
「わたしたちは島であり、島はわたしたちであるわ。先見の性質を内包するわたしに予知できないような天災は、逆に言えば、この島にとって必要な試練であるということ。そうとわかっていても、やはり何も起こらない年は喜ばしいわ」
そう言ったネママイアの前で、自然とムヨッサは平伏していた。隣にムノエスの気配をも感じるので、同じ行為に出たのだろう。
「ありがとうございます。そのように想っていただけて、島民は幸せでございましょう。我々もまた、御身に尽くせる一生を何よりの幸福に感じています」
「こちらこそ、あなたたちの人生をいただけて、とても幸せだわ。来年もよろしくね、ムヨッサ」
肩に手が触れた。顔を上げろとの意が伝わり、それに従うと、少女は暖かく笑んでいた。
そしてタランチュラを未だに撫でている神霊クヴォニスも、ふわりと笑う。
「ムノエス。今更平身低頭しなくても、君の気持ちはよくわかっているよ。何せ我々は似た存在。同じように人間という生物に始まり、同じく霊界と、そしてクヴォニスという大いなる存在と繋がったモノだよ。たまたま我が器となりて、君が眷属となっただけだ。この肉体が大いなる存在と適合しなかったなら、我らは共に神霊に仕える眷属同士になったはず、そんな気がする。とにかく顔を上げてくれよ」
主の許しを得て顔を上げたムノエスの黄金色の瞳は、微かに潤んでいた。
「そうですね。神霊さまがたが酒を飲めなくなった点を除けば、我々は同じです」
「ええ、今そこを指摘するのかい? まあ、どんな味だったかなんて憶えてないし、君たちが楽しそうに飲んだくれているなら、それを眺めるだけで十分だよ」
「では遠慮なく飲ませていただきますので、思う存分眺めてくだせえ」
ムノエスは、にかっと歯を見せて笑う。
「そうするわ。あと、ユシャワティンたちも来るみたいよ」
横合いから神霊ネママイアが付け加えた内容に、眷属二人は目を丸くする。
「他の神霊さまがたも来るって……どういう……」
おそるおそる訊き返す。
「言葉通りの意味よ。同じ建物の中に住んでいるのに、いつもは神霊は精神体の会話で済ませてしまうもの。たまには眷属も交えて、顔を見合わせてお喋りしようって話になっているわ」
「この客間ではそんな大人数をおもてなしできませんが!」
「では外へゆこう。シロアリの巣の状態が気になっていたし、ちょうどいいや。皆にも伝える」
シロアリはともかく、神霊クヴォニスの外へ行こうという提案には賛成だ。
どれほど雪が降っていようと、神殿のすぐ外の滝が凍っていようと、神霊の器や眷属が寒さの脅威を感じるわけでもない。
結局、飲みかけの酒や食べかけのつまみをまとめて外に持ち出す運びとなった。
「クヴォニスって土に潜る生き物とか特に好きよね。ミミズも全種揃えたとこの前言っていなかったかしら」
「好きな物は揃えたくなるものだよ。ネママイア、君だって気に入った書き手の書物は集めたいだろう?」
「当然でしょう。書物って手に入れにくいの。それだけに、躍起にもなるわ」
「わかるとも! 我もこの頃、下界で流行っているという新しい盤上遊戯が気になって気になって……! 手に入れにくいとわかると、益々欲しくなる」
「盤上遊戯を入手して、わたしたちを巻き込む気でしょう」
雑談をしつつ、神殿から出た。
今夜は晴れていて月が明るく、夜であっても遠くまで見通せる。風のヲン=フドワ、癒しのミュナ、金属のユシャワティン、それから各々の眷属たち数名。他の三柱の神霊が既に、庭で待ち受けているのが見える。
「あ、ああ……すごいことになってきたな、この年越し……」
「私か? 私がミィドを持って来たのが原因か?」
「そうだよ、あんたのせいだ。だから責任持って朝まで飲み明かすんだよ、わかったかい」
「異論なし!」
ムノエスの意気込んだポーズと声に、ムヨッサは大声で笑った。
――もうすぐ年が明ける。
敬愛する神霊たちと大切な瞬間を過ごせる、その身に余る幸福に震撼しながら、眷属たちは不可思議な夜の空間を駆けた。
<了>
登場する順番に:
ムヨッサ
神霊ネママイアの眷属のひとり。仕事熱心。人間だった頃は姉妹でパン屋を営み、ついでに酒豪だった。
ムノエス
神霊クヴォニスの眷属のひとり。人間だった頃はきこりだった。下界に残した家族は孫の代に突入している。今でも酒が好き。多分仕事熱心。
クヴォニス(689年時点)
学者肌の男(35歳くらい)。虫の群を育てるのがここ数十年の趣味、特にお気に入りはシロアリの巣。
神殿の庭で色々と実験しているが、寝室の中にもタランチュラ(無毒)などが住んでいる。
哺乳類も節足動物も植物も等しく可愛がる、懐の深い神霊。盤上遊戯が好きで、他の神霊たちを巻き込んで遊びたがる。
口癖「~気がする」
ネママイア
民の為に未来予知能力を行使する。見た目少女。
そんな異能を持っているためか、結末を知らないからと架空の物語が好き。
神霊の器暦はクヴォニスより二十年ほど先輩。
ただ喋るだけの年末
甲姫/作