top of page

 その体内に無数の瓦礫を内包し、暗い水の球は依然として、かつてセンナの在った場所の上空で、激しく蠢いていた。時折伸びる水の触手が、球体を包囲するワノトギたちを薙ぎ払おうとする。そうやって、攻撃させることで、トギたちは少しずつ悪霊の力をこそぎとっていた。

 

 あるものは赤い光を纏い、炎をぶつけ、あるものは青い光を発しながら襲い来る水の触手を、自らが発する水流をぶつけることで防ぐ。風の力で押し返すものもいる。

 

 砦を出たナギニーユとマレフィタは打ち付ける水しぶきに翻弄されながらも、上空の球を見上げる。観察していると、ワノトギの総攻撃に、少しずつその輪郭が縮小していっているように見えた。

 

 ナギニーユとマレフィタの目の前に大量の水が流れこむ。

 間一髪でポフィカントが二人の前に立ちはだかり手のひらから水を放出し、その流れによって、襲い来る水の進路を変えた。

 

『無事であったか』

 

 振り返った顔はポフィカントだったが、表情はポフィカントのように甘さはなく、切れるような目の、表情に乏しい男だった。ポフィカントのトギである。

 悪霊は、ナギニーユに攻撃を集中させ始める。

 攻撃をせず、皆に守られたナギニーユが、自分を浄化しようとしていると認識したのかもしれない。

 ワノトギたちがナギニーユの周辺に集まり、壁となった。

 ついに、土や植物の力を持つトギもこの戦いに参加をし始めたようで、あちらこちらで突然地面が盛り上がり、植物が地を割って天を衝く勢いで生え出す。

 悪霊が水の玉の中に抱え込んでいた瓦礫を弾き飛ばしてきた。思わず腕を上げ防御の体勢をとった。だがナギニーユの目前の地面が盛り上がり、盾となった。土のトギの力だろう。

 激しい攻撃を繰り出しながら、しだいに小さくなっていく悪霊。

 トギたちが悪霊の力を凌駕しているように見えるが、トギの力はそう長くは持たない。霊力の弱いもの、ワノトギとのバランスの悪いものから順に味方のトギは戦線を離脱していく。

 ただ、だいぶ小さくなった水球の中に、もやもやとした黒い悪霊本体が見え始めていた。

 

「どう? ナギ、いけそう?」

 

 嵐の中、叫ぶようなマレフィタの声が背後から聞こえ、ナギニーユはうなずいて深呼吸した。

 

「トギ。トラカトル!」

 

 ナギニーユはかつての親友である己のトギ・トラカトルに呼びかけた。

 その呼びかけに呼応するようにナギニーユの右肩が紫色に光りだし、ナギニーユは体をトギに明け渡す。

 

『行くよマレフィタ』

 

 そう声を発したのはもうすでにナギニーユではない。かつてナギニーユの親友であった彼のトギだ。

 

「わかったわ、トギ、お願い!」

 

 マレフィタが己のトギに、呼びかけた。

 

 

     ※ ※ ※ ※ ※

 

 ナギニーユのトギは深呼吸をすると、拳を握りしめ、悪霊を見上げた。

 悪霊は、黒い霧となり水の玉の中から這い出してくる。ひとかたまりになっていた水の塊は徐々に求心力を失い解けていく。

 

 ガッ。

 

  トギは肩に激しい衝撃を感じてその場に崩れ落ち、片足をついた。

 悪霊が最後の抵抗を試みているのか、周囲は荒れ狂い、飛ばされた小さな瓦礫がトギの肩にあたった。小さくても勢いをつけて飛んできた瓦礫の威力は強力で、血が吹き出す。

 トギは痛くはないが、これではワノトギ・ナギニーユがダメージを受ける。

 僅かに怒りの感情が芽生え、トギが肩を抑え唸った。と、ふいにその負傷した場所がじんわりと暖かくなる。

 後を振り返ると、紫の光がマレフィタの体を包み、彼女の手のひらがナギニーユの体に向けられている。癒やしの力だ。

 

『ありがとうマレのトギ』

『礼はいいから、早くやってよ、ナギのトギ!』

 

 ラベンダー色の瞳がトギ(トラカトル)を睨んでいた。

 悪霊は少しずつ此方へと引きずられている。だが、周囲の荒れようは激しさを増していた。味方のトギも人数を減らしているらしい。眼を開けていることも辛いほど、周囲は瓦礫や水滴が飛び回っていた。

 

 飛び散る瓦礫に一瞬、悪霊を睨むトギの注意がそれた。

 

『危ない!』

 

 いくつもお声が重なって聞こえたような気がした。息を呑んだ時には瓦礫を含んだ水の塊がこちらめがけて飛んで来るところだった。

 

 トギは、浄化の体制に入っていたためにとっさの防御ができない。

 

『いやあああああ!』

 

 背後からマレフィタのトギの悲鳴が聞こえる。

 

 キンという、耳鳴りがした。

 上空を赤い彗星が走った。その彗星が尾を引きながら、トラカトルと水の塊の間に落ち、視界には燃え盛る炎が広がった。炎がまるで生きているかのように、うねり、水の塊を打ち、薙ぎ払った。

 

『だれ?』

 

 炎がしだいに小さくなっていき、そこには揺れる豊かな黒髪の少女が立っていた。

 

 今までの嵐がまるで夢ででもあったかのように、世界は静寂に包まれていた。

 

 泥と水たまりの上で戦い疲れたトギたちが、あちらこちらで濡れネズミとなって、肩で息をしている。

上空には青空さえ広がり始め、うっすらとした陽の光が周囲にきらめきを与えていた。

 黒い靄となった悪霊は、攻撃を止め、少女の前でモヤモヤと揺蕩っていた。

 

『今だよ君、浄化するのだろう?』

 

 少女の口からは、およそ若々しい彼女に似合わない言葉が飛び出し、トギ(トラカトル)を肩越しにみつめる少女の瞳には、赤い炎が揺れていた。

 ナギニーユのトギは、湧き上がる疑問から目を背け、黒いモヤに対峙する。

 拳を向け大きく息を吸い込むと、悪霊本体である黒いモヤは、ナギニーユの体に吸い寄せられてくる。ナギニーユの体からは白いモヤが流れだした。二つのモヤは絡まり合い、せめぎ合う。次第に黒いモヤは薄くなり、すっと、ナギニーユの体内に吸収されていった。

 

 玉響……。

 

  トギと、彼に体を明け渡しているナギニーユに、絞るような胸の痛さと、一つのビジョンが流れこんできた。

 禁を犯し悪霊となったワノトギベセナートと、彼と手をつなぎはにかんだような笑顔を浮かべた少女。

 その少女の面差しが、どこか目の前に現れた炎の少女と似ていたような気がした。

 ああ、似てるのだと、ナギニーユと彼のトギは納得する。目の前に現れた少女と、悪霊となったべセナートの恋人であったヒュンメル。面差しが、どこか似ているのだと。

 

 そして、悪霊を取り込んだトギ・トラカトルはナギニーユの体から離れていく。

 

「は……しんど」

 

 つぶやきとともに、ナギニーユはそのまま後ろ向きに倒れこんでいった。

 

     ※ ※ ※ ※ ※

 

 どれだけ意識を手放していたのだろうか。

 意識が浮上したナギニーユは、目をつぶったまま、ゆっくりと手を動かしてみる。動く。

 ああ、生きているのだなと感じた。

 ゆっくりと目を開けると、気の強そうなくりっとした瞳が、長く揺れる黒髪に縁取られ、上から覗き込むようにこちらを見ていた。

 ナギニーユは目の前の少女が、あの時自分の前に炎となって空から降ってきた少女だと気付く。だが、印象がまるで違う。あの時は随分と落ち着いた大人っぽい印象だったのに、目の前のこの子は……。

 

「こども?」

 

 ナギニーユがつぶやくと、上から見下ろす顔がぱっと赤く染まり、眉がピクリと跳ね上がった。

 

「し、し、し、し、失礼ね! 私はもう十九よ!」

「ああ、悪い」

 

 思わず反射的に謝る。部屋の中は明るい光であふれていた。

 ベットの上に起き上がると、上半身は裸だった。少し布団を上げて確認すると、下履きは履いているらしく、なんとなくほっとする。

 

「あんた、ナギニーユでしょ? 二十四歳。ふんだ、私より五つ多いだけじゃない」

「……えっと、君は」

 

 ナギニーユはなんだかおかしくなってきた。目が覚めた途端にぽんぽんと責められているわけだが、たった五つ年下だというこの少女は、ひどく自分より幼く感じる。

 

「それで、悪霊は浄化できたんだよな? おれ、どれだけ寝てた?」

 

 そう言いながらナギニーユは自分の体を改めてながめた。あれだけの嵐の只中にいたはずなのに、日に焼け、筋肉質の自分の体は傷一つついてはいない。

 

「一日と半分はまるまる寝てたよ。帰ったものもいるけど……みんな、あんたが目をさますのを待ってたの。それと、マレフィタが、あんたの傷はぜーんぶ治してくれたんだから!」

 

 フォルテナが、まるで自分の手柄のように教えてくれる。その様子が可愛らしく、ナギニーユは口元が緩むのを抑えることが出来なかった。

 フォルテナは、何ニヤニヤしているのよ! ときつい言葉をナギニーユに投げかけながら、部屋の入口の扉を開いた。

 扉の向こうの部屋には、共に戦ったワノトギたちの顔があった。

 

「みんな! ナギニーユが目を覚ましたよ!」

 

 フォルテナの声が明るい窓辺に響き、その部屋にいたワノトギたちが、一斉にこちらを振り返った。

 

 

     ※ ※ ※ ※ ※

.

 エピローグ

 

 センナの町が消失するという、前代未聞の悪霊の事件から、二つの月が過ぎ去ろうとしていた。冬が訪れ、木枯らしが裸の森のなかを通り過ぎていく。

 森の中には一軒の家が建っていた。

その家の扉を一人の男がノックする。

 

「どちらさま?」

 

 家の中から、高い女の声がした。

 きい、と家の扉が開く。

 

「旅のワノトギで、サディンともうします」

 

 男が言うと、扉を開けて顔を出した善良そうな中年の女の顔が曇った。だが、すぐに女は笑顔を向ける。

 ワノトギであったべセナートのトギが悪霊と化し、センナという一つの町を消滅させるという事件以降、今まで屈託ない笑顔をワノトギに向けてくれていた民が、尊敬や信仰とはまた違った、恐れにも似た表情を向けてくることが度々起こるようになっていた。

 

「今宵一晩の宿をお願いできないかと思ったのですが……」

 

 サディンはあの悪霊の事件で、緑のリーダーとして砦づくりに力を尽くしたワノトギである。

 

「もちろんもちろん、ワノトギさま……、ですが、あの、小さな家で、ろくなおもてなしも……」

 

 女がしどろもどろと言い繕う。

 

「いえ、夜露さえしのげれば、どこでも構いません。いくらか蓄えもありますので、水だけ頂戴できれば」

「ええ、ではその……家の隣の薪小屋でも?」

「かまいませんよ」

 

 サディンはそう言い頭を下げた。

 家の奥から小さな女の子がこちらを見ているのに気づき、そっと笑顔を向けた。

 サディンの笑顔に気づくと、女の子はさっと顔をこわばらせて、家の奥へと消えていく。

 サディンは再びこの家の女房に礼を言うと、小さくため息をつき、薪小屋へと足を向けた。

 


 

 

  これまで人々は、このマスカダインにおいて、大いなる神霊の加護を受けて暮らしていた。

 神霊の欠片をいただくトギと、トギを操るワノトギは、人々の尊敬と信仰の象徴であった。  しかし、そのワノトギが悪を行いトギが悪霊となり、一つの町を滅ぼしたという事実が、これから先のマスカダインの歴史にそっと小さな影を投げかけたのだった。

 

     <Fin.>

​むらさめ(下)

観月/作

bottom of page