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 穀倉の後ろの高い丘には、隠者が住んでいる。

 

 サンセベリア地方の小集落シュルヴィには、いつからかそんな噂が広まっていた。

 一体いつから――と親に訊ねると、多分十年ほど前からだと言われる。

 少年は次に訊ねる。隠者、とはどういう存在なのか。親は答えた。誰にも会わずに静かにひとりで暮らす人のことだよ、と。

 

「十年も誰にも会わなかったの? さみしくないのかな」

「さあね、世俗を捨てた人の考えは私にはわからないわ」

 

 共に食器を洗っていた時のことだ。母親は息子の方を見ずに答えた。

 世俗ってなに、でひとつの問答があった。そのあとしばらく少年は黙り込んでいたが、やがて食器を全て洗い終わると、また口を開いた。

 

「聞いてみたいな。丘をのぼれば会えるかな」

「ダメよ、ゼヤト。十年も誰にも会わないってことは、誰も会いに行かなかったってことなのよ」

 

 どういう意味か察しなさい、と母は厳しく眉を吊り上げて言い聞かせようとした。

 しかしゼヤトは好奇心旺盛な十三歳だ。簡単に引き下がったりはしない。

 

「なんで誰も会いに行かないの? お母さんはさ、ご近所の人と三日も会わないと、わざわざ大丈夫ですかって聞くついでにお料理持っていくのに」

「それはご近所の人と仲がいいから」

「ご近所の人と仲がいいのは、近くに居るからって、仲良くなろうと『あいさつ』しに行ったからだよね。あの丘、近いよ? ご近所さんだよ。仲良くならなきゃ」

 

 濡れた手を手ぬぐいで拭いて、ゼヤトは流し台から踵を返した。

 

「待ちなさい、ゼヤト! 話はまだ終わってないわ、どこ行くの」

「ソルのとこに遊びに行く」

 

 少年は親友であり幼馴染である少年の名を口にする。その言葉に嘘は無かった。

 

「いいこと、絶対丘の上には行かないのよ。隠者は普通の人じゃないの!」

「はーい」

 

 間延びした返事だけを残して、走り去った。今度絶対に丘の上に行こう、とこっそり心の中で決めながら。

 

 ――普通じゃない人なんて、彼は全く怖くなかったのだから。


 

     * * * * *


 

 少年が母の忠告を無視すること、半年。それだけ長い間露見せずに続ければいい方だろうが、ついに、同い年の仲間たち三人に問い詰められる日が来た。

 夕飯時までまだ時間があるから今日もあの丘の上に行こう、隠者に会いに行こう、と思って歩き出したら、突然囲まれたのである。

 

「どこ行くんだ? ゼヤト。おまえ、いつも家の手伝いが終わったらどこ行ってんだよ」

 

 同い年の仲間たちの筆頭、いわゆるガキ大将。中央より左の前歯がふたつほど欠けていることからもわかるように、殴り合いが好きなやんちゃな少年だ。こう見えても集落の長の息子である。

 悪いことをしてる奴を見つけて、口止めに何かくれないと大人に言いつけるぞ、と脅している時と同じ笑い方をしている。

 

「別に。ソルの家の羊の世話を手伝ってるよ」

「うっそだぁ。穀倉の後ろから走ってくの、おいら見たもん」

 

 そっけなく答えようとしたゼヤトだが、ガキ大将の取り巻きその一が、指で丘の方を指し示す。

 余計なことを、と内心で舌打ちする。

 

「あの時は逃げた羊を追ってたんだ」

「うっそだぁ」

 

 取り巻きその二がずいっと前に進み出る。

 

(早くほっといて欲しいんだけど)

 

 願いは通じなかった。

 

「なあなあ聞いたぜ、この丘のぼれば『ワノトギ』ってのに会えるんだよな。人間やめてるって聞いたんだ。ド派手な髪色をしてるって本当か?」

「興味本位で行くの、やめろよ。失礼だかんな、そういうの」

 

 思わず口を挟んだ。取り巻きたちが、してやったり、と手を叩く。

 

「じゃあ認めるんだ、ワノトギがいるって」

「……」

「いいだろ別に。親は危険だとか気持ち悪いから近付くなって言うけど、おまえが会っても平気な奴なら、おれらだって会っても大丈夫じゃん」

「そういう問題じゃ」

 

 あのひとが嫌な想いをするかもしれないのが、ゼヤトは嫌だった。自分のいないところでこの三人があのひとを訪ねるのも、なんとなく嫌だ。それなら一緒に行った方がいいのかも、とやむなく譲歩する。

 

「わかったよ。ただし、ソルも一緒に連れてく」

「はぁ? あいつトロいだろ、ばっかじゃないのおまえ。いつまでもあんなのに付き合うことない――」

「あんなのって言うな!」

 

 殴りかかろうと右手を挙げて、しかし思い直した。手を引っ込める代わりに、相手の向う脛に思いっきり蹴りを入れた。次いでかわるがわる襲ってきた取り巻きたちも、転ばせたりしてあしらった。

 

「おまえらが来るのはいいけど、あのひとをソルにもいつか会わせてやりたいって、ずっと話してたから。別の奴を先に会わせるのは、俺がやだ」

 

 悶絶する三人を見下ろして、ゼヤトは告げる。


 

     * * * * *


 

 普通じゃないから、遊ばない。

 深く関わろうともしない有象無象の、薄っぺらい言い訳に辟易する。

 ゼヤトの親友ソルトルーノは、生まれつき右足が不自由だ。杖をついてかろうじて引きずるようにして歩けるが、それを理由に、子供たちの遊びの輪にずっと入れずにいた。

 

「ソルはすごく頭がいいし、新しいものに目がないし、話も面白い。みんなみたいに走れないけど、別に大人しくもない。無視されていいような奴じゃないんだ、絶対!」

 

 家の手伝いをサボったりしないし、思いやりがあって、面倒見がいい――

 

「……ゼヤト、気持ちは有り難いけど力説しすぎ。エレミタさん引いてるって」

 

 聞き慣れた、ふたつ年上の親友ソルトルーノの大人びた声で、ゼヤトは我に返った。遅れて、自分がいつどこで何をしていたのかを思い出す。

 瞼を一度上下させると、目前の景色がはっきりしてきた。

 爽やかな風が吹き抜ける、緑豊かな丘。

 丘の中心には、見慣れたメープルの巨木が居を構えている。その影に守られているかのように、粗末な掘っ立て小屋が寄り添う。

 掘っ建て小屋の入り口が向く方に目をやると、遥か遠くにそびえる大木が見える。太陽の位置から算出して、方角は南東。

 そしてゼヤトは丘の麓を振り返ってみた。そこにある細長い建物は、シュルヴィの集落の穀倉のひとつである。つまり此処は隠者が住まうと噂される高い丘で間違いない。

 

 ――そんな確認をしなくても、右手に隠者本人が立っているわけなのだが。

 

「ははは、引いてはおらんよ。ゼヤトのぼうずはいつも元気でいいね」

 

 身長がゼヤトとそう変わらない、腰の曲がった褐色肌の老人が朗らかに笑った。彼が名乗るエレミタとは「隠者」を示す単語であり本名ではないらしい。

 

「そうでしょ? 熱血過ぎて周り見えてない時もあるけど、隣で見る分には、清々しいですよ」

 

 ゼヤトの左には幼馴染であり親友のソルトルーノという――今年で十五歳になる、優しげな面差しと肩上まで伸びた真っ直ぐな黒髪が特徴的な――少年が杖に寄りかかって佇む。

 ソルから十歩以上離れた左に、例のガキ大将と取り巻きの二人が警戒した様子で立っていた。

 

「そっちのぼうずたちも、もっと近くにおいで」

 

 ほいほい、と老人が手招きをする。

 

「み、緑だ……爪が緑色だ……髪の毛も草みたいだな」

 

 三人が嫌そうに顔を歪めた。

 

「気味が悪いのならすまんね」

 

 心なしかエレミタの声は沈んでいる。傷付いたのではないだろうかとの焦りが、ゼヤトの背筋から脳天までを駆け上がった。

 

「おまえら失礼はやめろってあれだけ――!」

「まあまあ、落ち着きなよ。僕はエレミタさんの話が聞きたくて頑張って丘を登ったんだから。さっきから君ばかり喋ってる」

 

 激高するゼヤトの肩に、ソルの制止の手が掴まる。それだけで、胸の内を占めていた怒りが少し晴れる。

 そうだ、ソルは苦労して丘をのぼったのに、自分のせいでつまらない想いをさせてしまった。反省したゼヤトは頭を垂れた。

 

「……ごめん」

「他人の感性にケチつけるのは詮無いことだよ。気味悪いものは気味悪い。僕のことだって、親身になってくれるのは嬉しいけど、いつもそんなんじゃ君の血圧が心配だ」

「ソル……そういうのは『諦観』って言うんだ、知ってるかんな。俺が怒りすぎなら、おまえは怒らなすぎだ。友達がいなくて当然とか思うようになったら、負けだ」

「あー、そう言われると面目ないなぁ」

 

 ちなみについでのようについて来たあの三人は、普段あんなにソルトルーノの陰口を言うくせに、いざ本人を前にすると萎縮してしまうらしい。

 

「ほっほっほ、仲がいい子ほど喧嘩するね。じゃあ気持ちを切り替えよう。約束通り、わたしの昔話をするよ。何がいいかい」

 

 エレミタは急がない足取りで大木の下に行く。椅子代わりにちょうどいい大きさの石を寄せ集めようとしているのが見えて、ゼヤトも急いで手伝った。

 石で輪を組み、全員は腰を押し付けた。その輪の中を、たちまち質問の嵐が吹き荒ぶ。

 エレミタは嫌な顔ひとつせず、ワノトギとは実際に何をする人なのか、どうやってなれるのか、トギとの関係とは、能力とは、と順を追って語った。

 ふと、その傷なに、と取り巻きその一がエレミタの頬を指して無遠慮に訊く。君たちにするような話じゃないよ、と老人は悲しそうに答える。

 

「子供だからって気をつかわないでくれよ、エレミタさん。俺たちが聞きたいんだ。俺は、ちゃんとわかりたい」

 

 うまく言えないけれど、気持ちは真剣なのだとゼヤトは手振り交えて伝えた。

 褐色肌の老人の目元の皺が、優しく増えた気がした。

 

「これはね、石を投げられた痕だよ」

「い、石? でも傷が多いよ」

 

 取り巻きその二が怯えたように抗議する。

 

「うん、二度や三度投げられたんじゃなかったよ。広場に磔にされた。はりつけ、ってわかるかい。柱に結び付けられて、朝から晩まで民衆が飽きるまで、石を投げられたんだ」

「……」

 

 話す側の様子は穏やかだ。一方聞く側のゼヤトたちは、各々が座る石の上で身を強張らせ、思いつめた表情になる。

 話の内容を消化すればするほど、胃の中に嫌な感じが広がっていく。

 

「人にとってのワノトギは恐ろしい。強大な悪霊になりうるし、そんな悪霊を打ち負かす力も持っている。彼らの恐怖を直に肌に感じて、わたしは悲しかった。人々にこんな想いをさせてしまう自分の存在を呪ったよ……もうそこで死んでもいいと思った」

 

 続く言葉を、ゼヤトたちは息を呑んで静聴する。

 死霊や悪霊に関する知識は一応持っているが、ここは「ワノトギって悪霊になるの?」と素朴な質問を挟んでいい雰囲気ではない。

 

「だけど諦められなかった。わたしは己の中の神霊シャンケルさまの欠片と伽(トギ)の力を借りて、誰にもわからないように自衛した」

「どうして」

 

 ソルトルーノが訊いた。

 

「悪霊が、いたからさ」

 

 エレミタはもともと件の集落に悪霊の気配を察知し、それゆえに足を運ばせたのである。自分を決して歓迎しない集落だという事実を見せ付けられてからも、何もせずに引き返すわけには行かなかった。ワノトギとしての誇りが、役目を果たせと訴えたのだ。

 石を投げるのに飽きたら、民衆は見張りもつけずにエレミタを広場に放置した。

 深夜に縄から抜け出し、悪霊の潜む家を訪れ、努めて音を立てずにことを済ませた。

 集落の悪霊を滅した後は、もはや心身ともに疲れ切っていた。ただ草花を愛でながらひっそりと余生を過ごしたいと思った――神霊シャンケルさまがおわす神殿への入り口を護る神木ショウナヴァルタが、遠目に見えるような場所で。

 

「もうすぐ終われると思ってたのに、あれから十年も生き続けるとはね。居座ってしまって、君たちの集落には悪いことをしたね」

 

 丘の下の民から怯えられていることを知っているような口ぶりだ。ゼヤトは何故だか申し訳ない気持ちになった。

 

「ずっと誰にも会わなくて、さみしい?」

「いいや、全然。トギもナトギさまもいらっしゃるし、草花はいつでも傍に居るからね。それに今年からは、ゼヤトのぼうずが来てくれるようになった」

 

 そこでエレミタは指先の震える老いた手で、ゼヤトの頭をなでた。暖かくて優しい手付きに、くすぐったくなる。

 

「さあ、辛気臭い話は一旦おしまいにしよう」

 

 パン! と今度はエレミタは手を合わせた。周囲に謎の靄が広がった。

 

「せっかくここまで遊びに来てくれたんだ。わたしから、いいものを出してあげるよ」

 

 ――地面から無数の蔦が伸びる!

 

 にょきにょきと天に向かって伸びる蔦は次第に絡まりあって、巨大な滑り台とブランコ(一列に三席)を形作った。あっという間の奇跡である。

 

「すげー!」

「うわー! なんだこりゃー!」

 

 飛び上がらんばかりにゼヤトは興奮した。ガキ大将と取り巻きたちもぴょんぴょん跳ねている。びっくりしているのと得体が知れなくて怖いのとが混ざっているような声だ。

 

「ぜひ遊んでみて」

 

 遊具創造者の一言で少年たちは行動に移す。足が不自由なソルはブランコを選び、残る四人は滑り台とブランコをどっちも順に楽しんだ。

 丘の上で滑り台から滑り落ちると、実際の高さよりもかなり高くから落ちている錯覚に陥る。素早く通り過ぎる景色に、心躍った。

 

「あの木がショウナヴァルタか。ここから見えるなんて本当に大きいんだなぁ」

 

 ソルのうっとりとした声が近付いたり遠ざかったりする。地を蹴り、限界の高さまでブランコを揺らしているようだ。隣の席に乗り込んで、ゼヤトもブランコを堪能した。一番高いところから振り子のように落ちる瞬間、耳に伝わる「びゅっ」って音が面白い。

 そうこうしている間に夕暮れの空に包まれ、もう家に帰る時間だと知る。

 不思議な奇跡で現れた遊具は、エレミタの計らいにより、やはり一瞬で消え去った。

 ゼヤトは余韻に浸りながら礼を言った。

 

(こうして楽しい時間が終わると……)

 

 余計にエレミタが聞かせてくれた過去の話がやるせなくなる。

 理不尽だ――そのように言ったら、エレミタは小さく頭を振る。

 

「いいんだ。大勢の者の常識から外れた異端の者が、大衆とわかり合うのは、とても難しい。恐怖の意識が根付いていると尚更ね」

「大丈夫だよ! おれはエレミタさんのこと大好きだし、危険なんかじゃないって、集落のみんなにもわからせる!」

「僕も同じ気持ちです。こんなに素晴らしい力を持っているのに、孤独に生きなきゃならないなんておかしいです」

 

 拳で胸を打って約束するゼヤトの隣で、ソルも深く頷いた。

 

「うれしいねぇ」

 

 最後におずおずと、ガキ大将が歩み出た。

 

「おれは、緑のじいちゃんが今も、怖い……けど、ブランコと滑り台は楽しかった。だから、その借りを返す! 父ちゃんにはうまく言っておく」

 

 エレミタは目を細めて何度も頷き、ふふふ、うれしいねぇ、と笑った。


 

     * * * * *


 

 翌日ゼヤトは母を連れ、ソルは弟妹を、長の息子は集落の長である父親を連れて丘をのぼった。

 

「エレミタさん! どこ!?」

 

 求める人影は、数分としない内に大木の根元にて見つかった。予想だにしていなかった形での再会であった。

 

 ――地面に横たわり、胸の上で手を重ね合わせ、とても楽しそうな表情で目を瞑っている。

 

 きっと昼寝をしているだけなのだろうと思ってゼヤトは老人を呼んだ。何度も、何度も。

 どうやっても返事がもらえないのだとわかると、今度は頬を引っ張った。

 終いには、胸に耳を当てた。

 静かだ。脈動も無ければ呼吸音も無い。エレミタの胸板は動いていなかった――

 

「ゼヤト、その人はもう……」

 

 母の気遣う声でハッとなる。

 大木の根元で眠るようにして息を引き取っていた。

 返る視線はどれも気遣わしげで、取り合ってくれない。一人くらい、一緒になって脈を探してくれてもいいのに!

 どこからどう見ても、寝ているようにしか見えない。血色も良さそうだ。

 

「嘘だ! だってまだちょっとあったかいんだ!」

「ゼヤト……」

 

 集落の者たちの与り知るところではないが――ナトギが気を利かせて、埋葬してくれる人間が見つけてくれるまでに腐らないように、死体の状態を維持していたのである。

 

「嘘だ。なんで突然――」

 

 ゼヤトは衝撃に打ち震えた。

 昨日だ。元気な姿で会えたのは、つい昨日のことだった。

 

「寿命、だったんじゃないかな。ワノトギって本来の寿命より五十年は長く生きるって聞いたけど、この人は六十歳近くでワノトギになって……それから六十年頑張った」

「ソルまでそんなこと言うのかよ」

「事実でしょ」

「う……」

 

 体を酷使したツケが回ってきたのか、それとも本人の寿命は七十歳くらいだったのか。

 或いは、昨日自分たちの為に能力を使ったから力尽きたのか。

 今となっては真実はわからない。

 遅すぎた。何もかもが。

 集落民との溝をやっと埋めてやれるかもしれないと思ったのに。わだかまりを残したまま逝くなんて――。

 

「ゼヤト、結論を急ぎたがるのは君の悪いクセかな。この木をちゃんと見なよ。一晩で生えたみたいだよ」

 

 言われた通りによく見ると、そういえば丘の上の大木は二本になっていた。

 メープルの木の隣に、昨日までは存在しなかったリンゴの木が、ちゃっかりと生えているのだ。しかも疎らに実が成っている。

 

「一晩で植物がこんなに成長できるのか」

 

 集落の長が呆気にとられている。

 その時、ふわりと暖かな風が場を吹き抜けた。弾みで、朝の露を溜めていたみずみずしい葉っぱから、ぽろぽろと滴が零れ落ちる。

 頭上を振り仰いだ。冷たい感触がゼヤトの顔に降りかかる。

 

「これは感謝のしるしじゃないかな」

 

 そう言ったソルを、ゼヤトは思わず睨んだ。

 

「なんでエレミタさんが感謝するんだよ。おかしいだろ」

「さあ。楽しい気持ちにさせてもらったから、とか」

「でも楽しませてもらったのは俺たちの方じゃ」

 

 話の途中でソルはリンゴの木に歩み寄った。腕を伸ばして、黄緑のリンゴを一個もぎ取る。それをゼヤトに渡し、また自分の分にもう一個もぎ取った。りんごー! と口々に唱える五歳の弟と四歳の妹の分も、もぎ取った。

 無言で彼らは果実を口にする。

 

「おいしいね、ゼヤト」

「……うん。うん……おいしい……」

 

 この辺りの野生――と呼んでいいのかは謎――のリンゴがこうまで甘いのは珍しい。

 

「きれいだね。この丘はほんとに、きれいだ」

 

 ソルの感想に、ゼヤトは首肯した。せっかくの美しい景色も見えなくなるまでに、ぐずぐず泣いた。鼻水で呼吸困難になって、休み休みリンゴを食べる結果となる。

 袖で涙を乱暴に擦って、顔を上げた。傍らのソルも瞳に滴を溜めている。

 

「で、感動してるところ悪いんだけど、僕いいこと思いついたよ。このまま此処を朽ちさせない為の案」

「え?」

「やるかどうかは君が決めた方がいいと思う。あの人と、一番仲良かったから」

 

 大人たちの視線が急に集まった。

 臆することなく、ソルトルーノは自分の案を説明した。


 

     * * * * *


 

 穀倉の後ろの高い丘には、今はもう隠者が住んでいない。

 代わりにそこにあった掘っ立て小屋はシュルヴィの集落の民によって建て直され、旅人が滞在できるような素敵な宿屋になったという。たとえばセリュン高原を目指す参拝者、巡業中のワノトギ・コトトキなどの利用者が多かった。

 見晴らしもよく、そこで過ごす時間はゆったりとしていて、来訪者がどのような異邦人であろうと異端者であろうと民が安易な偏見を持って接することはなかった。

 

 やがて集落が滅ぶ日まで――いつまでも、シュルヴィの民は深い愛情を持って丘の上の宿の整備と、植物の世話をし続けた。

 

<了>

登場する順番に

 

ゼヤト

 13歳。単なる好奇心でエレミタの元を訪れるうちに、友達になる。

リーダー気質ではないが、たとえリーダーに反していても自分の意見をハッキリ言える気概がある。ちょっと熱血。そろそろ声変りする。

ゼヤトの母

 普通の集落民。霊的な存在には畏怖と恐怖両方を抱いている。夫は普通にいる。尺の都合で本編に登場しない。

長の息子(ガキ大将)と取り巻き1・2

 13歳。その場を盛り上げようとして人の嫌がることを進んでやらかしてしまう節があるが、根は悪いやつらではない。ソルのことは「一緒に遊べない」「頭がいいやつってなんか怖い」みたいな理由で苦手。ゼヤトを仲間に入れたいけど、うまくいかない腹いせでやや嫌がらせの方向に転じている。

ソルトルーノ

 15歳。声変り済み。聡明、からくりや新しいものが好き。ゼヤトがいつも先にブチ切れてくれるおかげか、いじめの対象にされても特に何も感じないような図太さをもって育った。親は父の死後に再婚、歳の離れた妹と弟がいる。

エレミタ(本名不明)

 120歳ほど。体力のピークを過ぎた50代後半に試練を乗り越え、それから60年以上も活動してきたワノトギ。ゼヤトたちをとても微笑ましげに見守る褐色肌の爺さん。

 35歳。集落の良いまとめ役。マジョリティと同じ感性の持ち主であり、霊的な存在には畏怖と恐怖両方を抱いている。わんぱくなひとり息子に手を焼いていて、その世話は妻に押し付けがち。

ソルの弟妹

 5歳と4歳。底抜けに明るくて、何もかもが可笑しいお年頃。

甲姫/作

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