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 回想から戻っても、海は変わらず穏やかだった。単に季節柄ということなのか、ナトギさまがまだ鎮めてくれているのか、テフェリには分からなかったけれど。とにかく、ユミュールというワノトギとの結びつきはこの島になくてはならないもので、トギが人であった時の妻というテフェリとの関係は何をおいても利用すべきものなのだろう。

 ――私は……ドゥヴァンとまた会える……なら、良いのかしら……?

 夫に心を残しながら妻になるのは、ユミュールに対する裏切りではないだろうか。彼の霊と共に過ごすためとはいえ、ユミュールの手を取るのはドゥヴァンに対する裏切りではないだろうか。

 答えが分からないまま、テフェリの目は海を浜辺をさまよい――ふと、砂の合間に光るものを見つけた。
 何が流れ着いたのだろうか、と思う。船の残骸が打ち寄せられたように、この浜には潮の流れの関係で様々なものがたどり着く。時に何年も前に帰らなかった男たちの遺品さえも。夫を亡くした女たちがよくここをうろつくのは、せめて思い出の品なりと得られないかとの希望に縋っているからだ。
 すでに日は高く中天にかかり、これだけ仕事を離れてしまった後では、テフェリは冷たい目で迎えられてしまうかも。何か、拾うことができたなら多少は気まずさも薄れるだろうか。

 そんな、軽い気持ちでテフェリはかがみ込むと砂をかき分けた。と、覗いたのは短剣の鞘のようだった。光ったのは、装飾に嵌められた石。金具は錆びてとうにぼろぼろになっていた。だから往時の姿は見る影もない――でも、石の色と形を見て心臓が跳ねる。それは彼女も良く知るものだったから。
 鼓動が早くなるのを感じながら、さらに砂を掘る。短剣がついに全体の姿を現した時、テフェリの唇からは吐息が、目からは涙がこぼれた。

「ああ……」

 それは、夫が携えていたものに違いなかった。彼の肉体はとうとう帰らなかったけど、今になって彼が最期まで身につけていたはずのものが妻のもとへと帰ったのだ。これは、何の予兆なのだろう。

 呼び名を見つけることができない感情に駆られて、震える手で短剣を掴む。――否、掴もうとした瞬間。短剣から白い靄が立ち上りテフェリへと襲い掛かった。

「なに……!?」

 靄は蛇のように彼女の腕に絡みつき、締め付ける。振り払おうとしても離れず、引き剥がそうとしても触れることができない。

「痛……っ」

 触れることのできない靄のくせに。それは彼女にしっかりと喰らいついて肉の痛みを感じさせる。見えない獣が爪を立てたかのように、無数の蚯蚓腫れが赤く盛り上がっていく。かつてユミュールの四肢に現れたのと同じ、死霊憑きの兆候だった。

「ドゥヴァン! ドゥヴァンなの!?」

 彼の短剣から現れた靄に、テフェリは必死に呼びかけた。そんなはずはない、これはおかしい、と軋む心に逆らって。

 だってドゥヴァンはトギになったのだ。神霊の試練を越えて、その力の欠片を宿して島を潤してくれている。誰もが慕い感謝するトギとして、ユミュールに憑いているのが彼のはず。この白い靄――これが、死霊なのだろうか。でも、たとえそうだとしても、彼がテフェリに憑りつくなんて。

「痛い……!」

 違う、と。心の中で叫ぶと、蚯蚓腫れがのたうってテフェリを苦しめた。それはすでに腕だけでなく足にも及んでいる。まるで彼女の言葉を咎めでもするかのようにずきずきと痛んで赤い筋が延びていく。この、何かを訴えるかのような疼きは――

「ドゥヴァン……」

 夫の名を呼ぶと、不思議と痛みがわずかに和らいだ。そうだ、俺だとでも言うように。それでも全身を襲う痛みは耐えがたく、錆びた短剣を抱えて蹲る。と、目の前が黒く染まる。靄が視界をも覆ったような、と思えたその色は、荒れ狂う海の色だった。

 黒い雲に閉ざされた暗い空に雷が光る。降り注ぐ雨粒は礫のように彼の身体を打ち据えていた。船は波と風に翻弄されて視界は絶え間なく揺れる。風を孕んだ帆は空高く舞い上がり、綱を掴んで帆を降ろそうとしていた者と一緒に波の間へ消えていった。
 ついに甲板にも海水が満ちて船のあちこちから木材がへし折れる音がする。海に投げ出される男たち。暗い水に押しつぶされた仲間の死に顔が白く浮かぶ。海の中では涙も見えない。そして彼もすぐに息絶えた。
 死んだ者のうちの幾らかは、妻や子への未練のために死霊となった。この思いを伝えたい――その一念だけに囚われた死霊は、一心に唯一の生者――高い霊力を持ち、懐いたナトギによって水面へと持ち上げられていたユミュールを目指した。死霊の靄が幾つも、争うようにユミュールへと殺到し、中でも最も素早かったひとつが勝った。彼は――ドゥヴァンは、跳ね飛ばされて。波間を漂って。ずっと。今日まで。

「ああ……」

 痛みのためではなく、テフェリは涙を流していた。やっと夫を迎えることができた嬉しさ。それを上回る、彼の死を見てしまった悲しみ。でも、それは彼女への想いのためだった。今も、テフェリを苦しめるためというよりは愛しさゆえに駆け寄ったようなものなのだ。

 ――なぜ……?

 と、嵐のように荒れ狂う胸を、鋭い恐怖が刺す。ドゥヴァンはここにいる。この短剣も、この記憶も、死霊となってなお残った妻への愛も、間違いようもなく彼のものだ。

 ならば、彼女はなぜユミュールに――彼のトギに身を任せたのだろう。夫はずっと海に漂っていた。霊力の高い彼が、自身に憑いた霊の正体を見誤るものなのだろうか。

 彼に、聞かなければならない。問い詰めなければならない。痛む四肢を引きずって、テフェリは集落への道をたどり始めた。



「テフェリ……?」

 島長の屋敷の前で何やら有力者たちと話し合っていたユミュールは、テフェリの姿に気づくなり眉を寄せた。彼女はいったいどのような顔色をしていたのだろう。

「お話があります。ふたりきりでなければならないの。来ていただけますか……?」
「今は大事な話をしているところだ――」

 痛みを堪えて無理に笑顔を作ったテフェリに、島長は顔を顰めたが周りの者に何事か囁かれて一転して笑みを作った。

「いや、お前ならば良いか。行ってきなさい」
「ありがとうございます」

 結婚の話を承諾したとでも思ったのだろう。今朝がたそんな話をしたのも、もう遠いことのようだった。

「ユミュールさま、こちらへ」
「あ、ああ」

 不審そうに眉を寄せたままのユミュールを連れて、テフェリは海辺へと戻った。先ほどの浜辺では人が来るかもしれないから、もっと崖の険しい方へ。こちらならば、貝を拾いに子供が来るようなこともない。

「……話とは?」

 島長とは違って、ユミュールは結婚の承諾などとは思っていないらしい。それもまた、彼の嘘を裏付けるようだった。胸を刺す痛みが強くなるのを感じながら、テフェリは問いには答えず無言で服の袖をまくった。

「それは――!」
「浜辺でこの短剣を見つけて、触れたら死霊に憑かれました。足にも広がっています」

 かつてユミュール自身をも侵した蚯蚓腫れ。その意味は、ワノトギには一目で知れたらしい。怪訝そうだった表情が一瞬で緊迫したものに変わり、大股でテフェリに迫ってくる。

「祓わなくては。すぐに、神殿へ――」

 引きずってでも、と言うのか。伸ばされた腕を、でも、テフェリは払いのけた。

「これは、ドゥヴァンの霊です」

 そして、ユミュールの顔がさっと青ざめるのを見て、すべてを悟る。

「知って、いたのですね……」

 そうだろうとは思っていた。霊力のないテフェリにさえ、夫の最期の記憶ははっきりと見えたのだ。ユミュールならば、なおのこと。憑いた者の想いを我がことのように読み取っただろう。

「あなたのトギは、本当は誰の霊なのですか?」
「……ディーガルだ」

 夫と共に海に消えた男の名を聞いて、テフェリは悲しみに目を閉じた。ディーガルの妻も子も、彼女は良く知っている。テフェリが授かった、夫の霊とのひと時――それは、本来は彼女たちが味わうべきものだったのだ。

「か、彼は何も知らない……! トギは普段は眠ったようになっているから。あなたに、あ……ああしたのはすべて私だ……!」
「そんなことは言っていません!」

 夜のことを仄めかされて、羞恥と、そして怒りによって、テフェリの頬が赤く染まる。

「どうしてそんな嘘を吐いたのですか!? どうして本当のことを言わなかったのです!? 死んだと思ったドゥヴァンに会えたと思ったのに、今、彼の霊に遭って……私は――っ」
「愛していたから!」

 涙に声を詰まらせたところに、ユミュールが叫んだ。

「ずっと、見ていた。漁の見送りも出迎えるのも、水を汲む姿、洗いものをするところ、ドゥヴァンに微笑みかけるところ――ずっと見て、触れたかった」
「……何を……」
「夫ある女性に言い寄る隙があるとは思っていなかった。だが、あの時目覚めて、死霊に憑かれたと気づいて、そしてあなたの姿を見て。……使えると、思ってしまった」

 ユミュールの目を、テフェリが感じたことはなかった。だが、今うわ言のように語る彼の目は熱く昏く、このような目をずっと向けられていたのかと思うと寒気さえ覚えた。

「あなたが私に縋って泣いた。抱きしめて慰めることができた。その、一瞬だけで良いと思ったのに……」

 言葉の続きは聞くまでもなかった。死霊が祓われて終わりだと思ったのに、ユミュールはワノトギになってしまった。ドゥヴァンだと嘘を吐いたディーガルの霊もトギになって、この世に留まってしまった。……だから、ユミュールは嘘を吐き続けるしかなかった。

「みんな、あなただったのね……!?」

 ドゥヴァンだと偽って彼女を抱いて、愛を囁いたのは。無言でうなずいたユミュールの姿が、溢れる涙によって歪む。

 ――どうして、気づかなかったの……!?

 全身を苛む蚯蚓腫れが、身体以上に心を締め付けているようだった。ユミュールの嘘に騙されて、夫を裏切った彼女への罰のようだった。
 信じてしまったのは――神霊に認められたワノトギが嘘など吐くはずがないと思ったからだろうか。テフェリを見続けたていたというユミュールが、彼の口調をよく真似ていたからだろうか。いや、違う。どんな姿になってもドゥヴァンに会いたかったからだ。だから、甘い言葉に縋ってしまったのだ。

「……どう責められても当然だと思っている。だが、今は時間がない。早く――」
「触らないで!」

 心は夫のものだと思えばこそ肌を許してしまったのだ。すべてが嘘だと分かった今、ユミュールの手は忌まわしく汚らわしいものでしかない。
 涙の滲んだ目で睨みつけると、ユミュールは明らかに怯んだ様子を見せた――が、すぐに気を取り直してまたテフェリに近寄ろうとしてくる。

「そのままでは死ぬぞ! 神殿に行こう!」
「嫌! ドゥヴァンを祓わせたりしないわ!」
「……あなたもワノトギになれるかもしれない。トギとワノトギとしてなら、ずっと一緒にいられる……」
「やめて! あなたの言うことは聞きたくない!」

 激しく首を振ったテフェリの足元で、小石が音を立てて海面へと吸い込まれていった。ユミュールの手を避けるうちに、彼女は断崖の淵に近づいていたのだ。

「ワノトギになれるのはごくわずかなのでしょう? 百人にひとり? それとも千人にひとりかしら。そんな賭けに乗ることはできない!」
「それでもずっとそのままでいることはできない。たとえ神殿に行かなくても――あなたが死ねば、彼は悪霊になってしまう。そうすれば、どの道私が消滅させなくてはならなくなる」

 悪霊は、死霊よりもさらに恐ろしくおぞましいもの。好んで人を襲い、憑りつかれた者は神霊でさえも助けることができず死を待つしかないという。今はテフェリに憑いているドゥヴァンも、彼女が死んだ後は人を襲うようになってしまうのだろうか。
 そして、ワノトギは唯一悪霊を消滅させる力がある存在だ。民のために力を使うためにこそ、神霊は欠片を授けるのだとか。多分ユミュールはワノトギの務めとして言ったのだろう。少なくとも、島のために彼が尽力してくれたのは事実なのだから。でも、テフェリの耳にはそれは脅しに聞こえた。ドゥヴァンを悪霊にさせたくなければ言うことを聞け、と。

「そんなこと、させないわ……!」

 ドゥヴァンに人を殺めさせたくはない。そして、彼が消滅させられるのも嫌だった。
 踵が宙に浮いてしまうほどの、崖のぎりぎりの淵に立って、テフェリは錆ついた短剣を抜き――首筋に突き付けた。もちろん刃もすっかり鈍っているが、先端は女の皮膚を抉る程度の鋭さを残している。

「――やめろ! あなたが死んでも何にもならない。死霊が増えるだけだ!」
「それで、良いの」

 四肢を襲う痛みも忘れて、テフェリは穏やかに笑った。ユミュールが顔色を変えて悲鳴のような声を上げているのが楽しかった。それに、この期に及んでは痛みもドゥヴァンの抱擁のように思えたから。

「ドゥヴァンは見つかることも人に憑くこともなく三年も海をさまよっていたのよ。ましてここから落ちれば死体が見つかることもない。彼と一緒に私も悪霊になるので良いわ。ずっと彼と離れないで――共に、海に漂うの」
「やめろ!」

 ユミュールの声はテフェリの手に力を込めさせただけだった。

 短剣で喉を貫くと錆びた刃が肌を裂く感触が手に伝わった。溢れた血が喉を塞ぎ口から噴き出す。仰のいて倒れると、目に映るのは青空――そこに血の赤がよく映える。
 つま先が崖を離れる。ふわりと宙に浮くような気がしたのも一瞬のこと。血をまき散らしながらテフェリは堕ちて。

 すぐに水の音が高く響いた。

 空の青は水底の蒼に取って代わられる。さらに視界を覆うのは黒い靄。悪霊になりつつあるドゥヴァンが、彼女を包み込んでいる。満ち足りた幸せを感じながら、テフェリは微笑んで目を閉じた。

 死んだ夫の帰還 2

Veilchen/作

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