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 山は濃い霧で覆われていた。木の根に足を取られそうになる山肌の道をワノトギ――神霊の欠片により霊体トギと繋がり、その力を行使できる者――のナギニーユは歩いていた。「死霊に憑かれた子供がいる」と聞いて麓の村を訪れたのだが、母親はその子を連れて山に逃げたというのだ。

 

「なんで逃げるかなあ……まあ何もしてやれないのは確かなんだけど」

 

 白いため息をついて、ナギニーユはあたりを見回す。ワノトギは体内に神霊の欠片を持っている。その欠片により、悪霊や死霊を浄化することは出来るが、生きている人間からそれらを剥がすことは出来ない。つまり、憑かれた人間が生きている間は、何をすることも出来ないのだ。死霊の状態の悪化を遅らせる薬を与え、神殿に送り届けるだけである。そして、不運にも神殿に辿り着く前に亡くなり、取り憑いていた死霊が悪霊となれば祓う。その仕組みのせいで、一部の人々には「ワノトギは死ぬのを待っているだけだ」と思われているらしいのだ。村人の話では子供の状態は相当に悪かったようだから、何かされると勘違いをした母親が山に逃げ込んだ、というところだろう。

 

「このあたりだな」
 
 やがて、細い道は開けた場所へと繋がった。生まれ持った霊力が弱いナギニーユでも、死霊の気配を感じとることができた。目を凝らすと濃い霧の先に、うっすらとエンジ色が見えた。母親の衣服の色だろう。崖から落ちたりはしていなかった……ほっと息を吐いてナギニーユは母親と思しき影に近づいた。ナギニーユに気がついた母親が、子供を背に庇い、両手をいっぱいに広げる。

 

「ワノトギさま! 違います、この子は違うんです!」

 

 母親は涙を浮かべながら叫んだ。ナギニーユは彼女を落ち着かせようと少し下がって、笑顔を浮かべる。

 

「大丈夫ですよ。何もしませんから、ちょっとだけ見せてください」
「いいえ! いいえ! その必要はありません。どうか捨て置いてください」

 

 母親は大きく首を振る。時間がたてばそれだけ死霊の状態が悪くなってしまう……ナギニーユは仕方なく強硬手段をとることにした。革の腰袋から拳ほどの大きさの鉄の塊を取り出す。

 

「トギ」
「あああ!」

 

 ナギニーユの呟きを聞いて、母親は悲鳴を上げその場にへたり込んだ。ナギニーユの手の上の鉄球が軽く震えて、解けるように細く糸が伸びだした。まるで毛糸だまのように鉄球は手の上で転がり、鉄の糸を紡ぐ。それは徐々に早くなり、長く伸びていった。するすると生き物のように母親に巻きつき横に押しやる。そこには幼い少年がぐったりと横たわっていた。

 

『あれは……もう無理だね』

 

 ナギニーユの右肩が薄紫色に光り、ナギニーユにしか聞こえない声が響いた。ナギニーユがワノトギと呼ばれる所以、神霊の欠片によりナギニーユと繋がっている零体「トギ」の声だった。ナギニーユはそっと頷く。少年は、ほぼ黒に近い灰色の靄に包み込まれていた。死霊に憑かれて長いのか、余程状態の悪い死霊に憑かれたのか。間違いなく神殿まではもたない。間もなく少年は亡くなり、死霊はよすがを失って悪霊と化すだろう。

 

「この子が死ぬのを待って退治するのでしょう。助けてなどくださらないのでしょう」

 

 若い母親は鉄の糸に絡め取られ、身動き出来ないままつぶやいた。ナギニーユは思わず顔を歪める。母親の言うとおりだった。

 

「……お気持ちはわかります。私もそうやって、為す術もなく友を亡くしましたから。……でも、お子さんの魂を退治するわけではありません。お子さんの魂は大いなるマスカダインの大地に還るでしょう」

 

 慰めにもならないことを知りつつ、ナギニーユは告げる。母親はわっと泣き伏して子供に縋りついた。居た堪れない……だが目を放した隙に悪霊に逃げられたり、母親に憑かれたりしては困る。ナギニーユは黙ってその場に座り込んだ。ワノトギになってから、幾度もこのような場所には居合わせているが、何度経験してみても気が重い。ナギニーユの耳に「おかあさん、ごめんね」というかすれた声が届き、何もできない不甲斐なさと悔しさでナギニーユは強く唇をかんだ。

 

『お前のせいじゃない』

 

 再び、ナギニーユにしか聞こえない声が告げた。ナギニーユのトギは、かつて親友だったトラカトルという少年の霊体だ。九年前、トラカトルは死霊に憑かれて死んだ。宿主を失った死霊は悪霊と化し、その場にいたナギニーユに襲いかかった。トラカトルはナギニーユを「自分が死霊として取り憑く」ことで悪霊に憑かれることから守ったのだった。運よく通りかかった二人のワノトギ、イオとルシオに救われたナギニーユはロウレンティアの神殿で試練を受けた。トラカトルをナギニーユから剥がしてマスカダインの大地に還すために。ところが、トラカトルは金属の恵みをもたらす神霊ユシャワティンの欠片を受けて精霊トギとなったのだ。そしてその瞬間から、ナギニーユはワノトギになった。

 

『ナギ、わかるか?』
「なにが?」
『……マレフィタが近くに居る』
「本当か! 早く言えよ!」
『俺も今気付いたんだよ』

 

 マレフィタならばこの子を救える、ナギニーユは慌てて立ち上がる。

 

「トラ、ナトギに言って、マレフィタに連絡を!」
『トラじゃなくてトギ。その必要ないよ、マレフィタは俺たちを探してるらしい。こんなに大声で呼んでるナトギの声が聞こえないなんて、お前の霊力は本当に残念だな』
「うるせえなあ」

 

 からかうような声で言う元友人に、ナギニーユは笑って返す。トラカトルは生前から霊力が高かったらしい。そして、とても強い力を持ったトギになった。時々こうやってナギニーユの無力をからかうのだが、ナギニーユは全く気にしていない。トラカトルがナギニーユを「普通の人間たちの輪から外れる存在」にしてしまったことを、本当は悔やんでいることを知っているからだった。一人で叫び、話しているように見えるだろうナギニーユを、母親が不審そうな目で見つめた。ナギニーユは落ち着かずにウロウロと歩き回った。

 

「迎えにいってみるか?」
『もう来たよ』

 

 うんざりしたようなトラカトルの声にナギニーユは慌てて周りを見渡す。人影が目に入り、ナギニーユは駆け出した。

 

「マレ!」
「ナギ、すごい霧だねえ」

 

 マレフィタは柔らかく微笑む。美しい青灰の髪にラベンダー色の瞳が、ふんわりと女性らしい風貌の彼女に神々しさを与えている。

 

「ナトギで呼んだんだけど……」
「あーごめん。俺聞こえないから。トギも寝っぱなしだったし」
「そうなんだあ」

 

 頭を掻くナギニーユにマレフィタはふんわりと笑う。ワノトギの通信手段としても使われる自然精霊ナトギの声をナギニーユは聞くことが出来ない。それに、霊力が弱いのでトラカトルを起こしたままにしておくと、すぐに疲れてしまう。伝達を聞き逃すことが今までも多かった。それを馬鹿にするワノトギもたまには居たが、マレフィタからはそのような気持ちは全く感じなかった。ナギニーユの肩の上で紫色の燐光が強く光る。

 

『久しぶり、マレフィタ』
「久しぶりね、ナギのトギ」
『マレのトギも久しぶりだね』
『……』
『本当か?』
「そうなの。とても忙しくて」
『……』
「そうね」

 

 マレフィタも、とても霊力が高い。その上、トラカトルと波長が合っているらしく、その声を聞くことができる。だが、ナギニーユはマレフィタのトギの声を聞くことは出来ない。なんだか仲間はずれになったようで、少し寂しく感じた。

 

「マレ、あの子を助けて欲しいんだけど」

 

 会話を遮るのが申し訳なくて小声で言って、ナギニーユは親子の方を振り返った。マレフィタはつられるように視線を向ける。

 

「まあ、だいぶ悪いわね。痛いでしょうに……やってみるね」

 

 マレフィタも小声で返し、すたすたと親子に近づいた。母親は拍子抜けするほどあっさりと、マレフィタに子供を見せた。普通ではありえない青灰の髪。柔らかな顔立ちのマレフィタに安心したのかもしれない。マレフィタはその細く白い指をそっと子供の額に押し当てた。スミレ色の燐光がその指先にきらめくのは、ナギニーユにも視認できる。

 

「俺のときと態度が全然違うじゃん」
『お前の風貌は怪しいからな』

 

 思わずナギニーユは呟き、再びトラカトルにからかわれた。ナギニーユはワノトギになった後も、普通の人間だった頃とほとんど見た目が変わっていない。背が高く、筋肉質で色黒、気の強そうな黒い瞳にごわごわと硬い黒髪。漁師をしていた頃の風貌そのままだった。それも霊力が低いせいかもしれないな、とナギニーユは思っている。

 

「ありがとうございます!!」

 

 感極まったような母親の声で、ナギニーユはっと我に返った。子供はすっかりと回復し、何事か分らないといった顔で母親に抱きしめられている。現在存命中のワノトギの中で、マレフィタだけが持つ、癒しの能力だった。死霊の状態を現す靄の色は相変わらず良いとは言えないが、これなら神殿までもつだろう。

 

「これをお子さんの全身に塗ってください。終わったら山を下りましょう。わたしたちは先を急ぐので、神殿まで一緒に行くことはできません。ここから一番近いのはサンセベリア神殿です。ゆっくりと歩いても間に合う距離ですから。近くの村で案内人を雇えばいいでしょう」

 

 マレフィタは彼女の手を握って離さない母親に金貨を手渡し、引き剥がすようにしてナギニーユの元へと戻った。ナギニーユはしっかりと頭を下げる。

 

「ありがとうマレフィタ」
「当たり前のことをしただけだよ」
「……うん、それでも。あの子が助かって嬉しいから」

 マレフィタは再び柔らかく微笑んだ。

「ところでセンナの話は聞いた?」
「いや」
「……トギ堕ちが出たの」

 

 トギ堕ち……ナギニーユの背中をつめたいものが流れた。ワノトギが倫理に背く――人を傷つけたり、自分の利益の為だけに神霊に貸し与えられているトギの力を使う――ことをすると、神霊の欠片は損なわれ、消える。欠片を失ったワノトギはトギと混じりあい、すぐに死に至る。そしてトギの魂を吸収したまま悪霊と化してしまうのだ。
 普通の悪霊であれば「取り憑き、宿主を殺し、魂を取り込む」を漫然と繰り返すだけであるが、トギ堕ちによって生まれた悪霊は、トギであったころの力を使い、あたりかまわず周辺を破壊しつくす。
 悪霊から感じる思いが「寂しさ」「恋しさ」であるとしたら、トギ堕ちのそれは「怒り」「憎しみ」だと言えるだろう。

 

「禁忌を犯したのか? 一体誰が」

 マレフィタは言葉に詰まったように俯いた。長い……これもまた青灰色のまつ毛が数回上下する。

「ベセナートなの」
「まさか!」

 

 ナギニーユは両手で顔を押さえてうな垂れる。人の良いベセナートの、年下の彼女の事を語る時の、照れくさそうな顔を思い出した。ベセナートが何に怒り、憎んだと言うのだろう。

 

「ベセナートが……そんなこと……ありえない」
「本当よ。街一つ分の人たちの魂を飲み込んで……。数人ががりで交代で押さえ込んでるらしいわ。イオとルシオがいるから滅多なことはないと思うけど」

 

 ナギニーユは命の恩人である二人の名前を聞いて、はっと顔を上げる。ナギニーユを救った頃からずっと第一線で活躍している実力者、その二人が居ても削りきれないのだとしたら、少しでも早く加勢に向かうべきだ。

 

「……わかった、すぐに向かう。センナだね」
「わたしもいく。攻撃の力にはなれないかもしれないけど、やれることはあると思うから」

 霧が晴れて、木々の隙間から木漏れ日がさし始めた。

「シャンケル様も、きっと導いてくださるわ」

 

 光を手のひらに受けてマレフィタが呟く。ナギニーユも空を見上げた。ベセナートに何があったのかわからない。だが、何があったにせよ、ワノトギであるナギニーユには「かつてベセナートであったもの」を滅する義務がある。ワノトギの生き方に慣れきてはいても、時々無性に虚しくなることがあった。神霊は何故ベセナートを助けてくださらなかったのか。

 

「あの、終わりました」

 

 母親が真剣に話をしているナギニーユたちに、遠慮がちな声をかけた。子供はくりくりした目でナギニーユを見つめている。

 

「ねえ、さっきの見せて。糸がくるくるってなるやつ」
「いいよ。さあ、おいで」

 

 ナギニーユは子供に背中を見せて屈む。飛びついてくる子供の重さを感じながら、再びマレフィタの力に深く感謝した。神霊を疑ってはいけない。彼らは救われる術をちゃんと与えてくださっているのだ。その上で過ちを犯し、堕ちてゆくのが人なのだ。

 

――ベセナートを解放してあげたい

 

 何から? ナギニーユは自分のうちに沸いた疑問を打ち消すように首を振った。

 

「疲れちゃうから一回だけだよ」

 

 ナギニーユはそう言うと、自分の胸元で組まれた小さな手に、先ほどのより小さな鉄球を握らせた。それはくるくると形を変えて、小さな馬の形になる。

 

「お馬さん!」
「あげるよ。もうちょっとだから頑張ろうね」

 

 ナギニーユは背中の温もりを大事に背負いなおし、しっかりとした足取りで山道を下り始めた。

​ワノトギであるということ

タカノケイ/作

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