Muscadine Chronicles
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「僕も楽しかったよ。絶対また、会いに来るからね」
「ありがとう。待っているね、ポフィ」
少女は、そっと記憶の引き出しから宝物を取り出して微笑む。神霊ネママイアと融合した少女は、過去の器達の記憶も引き継いでいるが、それらを引き出すことはない。幼なじみの少年がわざわざマスカダイン山の神殿にまで訪ねてくれた時の人懐こい笑顔を胸に抱き、空虚な部屋に一人で永遠とも感じる日々を過ごしている。
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マスカダイン島には九柱の神がおられるが、ロウレンティア地方には五柱の神が恵みを与えてくださっている。信仰深いロウレンティア地方の人々は、そのことに誇りを持っていて、マスカダイン山に麓から見える程の立派な神殿を建てている。しかし、神霊達が暮らしているのは、その目に見える場所では無い。唯人が訪れることは敵わぬ真の神殿だ。
ユンカナイは十六歳で記憶を司るネママイア神の器となり、静かな日々を過ごしている。世話をしてくれるのは、眷属と呼ばれる一旦は神霊を身に受けたが、定着させることができなかった人達だ。ロウレンティア地方の他の四人の神霊とはお互いに話しはできるので、直接に足を運んで会うことも稀だ。
今朝、ユンカナイは微笑みながら起きた。夢で、山を登ってくる幼馴染の少年が見えたからだ。偶然にもお互いの住んでいる町を離れて、川の側の町で会った少年がワノトギになって、神霊になったユンカナイを遠いヒヤシンス地方から訪ねて来てくれるのだ。
『ポフィが来るわ!』
ネママイア神霊の器であるユンカナイは、予知夢を見たのだ。俗世を離れ、変化のない生活に倦んでいるとも気がつかなかったが、数年前にポフィが来てからは、その再来を楽しみにしていた。これは、記憶と未来の管理を司るネママイア神霊の器としては、異例なことだ。人格の内の大きな割合を占める、神霊ネママイアという大いなる存在は、自分がユンカナイと呼ばれていたことすら希薄にさせていた。
「誰かいませんか? 着替えます」
「お目覚めですか?」
神霊が暮らす部屋には眷属も勝手には入らない。木のビーズのカーテンの向こうにひざまずいて、着替えのお手伝いをしようと声をかける。今朝はいつも着替えを手伝ってくれる眷属ではない。
「ええ、ムヨッサお願いします」
神霊の器になった時の十六歳のままの姿のユンカナイは、同じ村のパン屋のおばさんだったムヨッサに手伝って貰って着替える。他の眷属よりも、少し気安く思っているからだろうか? ネママイア神霊の印である薄紫色の髪をいつもどおりに編み込みにして低い位置で纏めて貰ったのをそっと触りながら、神霊らしくない言葉を発した。
「私はちゃんとしているかしら?」
ムヨッサは、いつも格好などに拘ったりしない神霊の言葉に目線をあげる。訝しく感じたが、普段通りの神霊が石の椅子に座っているだけだ。聞き間違えなのか、たんに神霊の気まぐれなのかと不思議に思ったが、眷属は神霊の言動に口を出せる立場ではない。静かに石の椅子に座っている神霊を残して、部屋を辞した。
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フラサオ神霊の恵みを受けている証の濃紺のストレートの髪を後ろで一つに括ったポフィがロウレンティア神殿への険しい道を登っている。マスカダイン山にある神殿までの道沿いの岩に腰を下ろすと、背中のリュックサックから水筒を取り出して一口飲む。前に訪れた時の失敗を反省して、今回は準備万端だ。
「ああ! 絶景だなぁ~! ねえ、トギも見てみたら?」
ポフィの呼びかけで、肘の付け根の青い燐光が濃い水色になる。ポフィが八歳の時、死霊が憑りつき、ヒヤシンス神殿で試練を受けてワノトギになったのだ。そして、憑りついていた死霊は、フラサオ神霊より<欠片>を預かりトギとなって、ポフィと運命を共にしている。
トギには実体は無いが、視覚と感覚は持っている。さほど重大な用事でもないのに呼び出されたトギは、不機嫌そうに応える。
『吾にはデュモンド湖の方が好ましい』
「まぁ、たしかにデュモンド湖も素晴らしいけど、ここからの絶景は滅多に見られないよ」
そうは言うもののポフィが住むヒヤシンス地方は平地にあるので、山登りには不慣れだ。山の上は涼しいのだが、急いで登ったので息はあがっている。先を急ぎながら、じんわりと滲んだ額の汗を拭う。
「やっと、神殿に着いたよ。景色は素晴らしいけど、山登りは大変だねぇ」
『なら、わざわざロウレンティアの神殿になぞ来なければ良いのだ』
幼い時からの付き合いであるトギは、わざわざヒヤシンス地方を離れてマスカダイン山に来る気がしれないと、呆れた口調で応える。ロウレンティアの神殿は、ヒヤシンス神殿よりも高慢な感じがするのが、トギには不快なのだ。前回の滞在中も、宿代の代わりにあれこれと働かされた。
「だって、ユンカナイに会うには、ロウレンティア神殿に行くしかないからね。そうだ、折角だからお土産を持って行こうかな? ねぇ、トギ様、雨を降らせて下さいませんか? あっ、ここじゃなくて真の神殿の近くでね! あそこならマスカダインも育ちやすいし、眷属が採りに行きやすいからさぁ」
『軽々しくフラサオ神霊の力を使うべきではない』
幼い時にワノトギになったからか、トギは説教臭いところがあるとポフィは肩を竦める。それでも思念で、了解と感じた。
「さっさとユンカナイに会おう!」
ポフィは、立派な神殿を横目に見ながら通り過ぎて、ずんずんと裏手の森の中を進んで行く。神霊が住む真の神殿は、ある意味で異空間に近い。普通の人間にはたどり着くことさえできない。この前は、神霊が唯一口にできるマスカダインという果物を採りに来た眷属に案内して貰ったのだ。
「ナトギの気配が濃くなったね。もうすぐ神殿だ」
自然界に浮遊する精霊達にポフィは、目を留める。前にこの場所でトギに水を出して貰ったのを思い出す。トギは、ポフィの頼みに応じて、水を与える。森のナトギがきらきらと木々や葉を潤していく様を暫し眺めていたが、マスカダインの実は見つけることはできなかった。
「前に会ったおばさんが採ったばかりなのかな? まぁ、そのうちまた実るだろう」
変わらず呑気なポフィに、トギは警告する。
『案内がなくても真の神殿に辿り着けるのか? それを案じた方が良いぞ』
「うう~ん、きっと大丈夫だよ。ナイちゃんが招き入れてくれるさ」
どこまでも楽天的なポフィに、トギはあれこれと忠告をするが、いつもの如く聞き流される。しかし、今回はポフィの言う通りになった。
「ほら、真の神殿が見えたよ」
木と岩と滝が混然となった真のロウレンティア神殿の入り口で、ポフィは出てきた眷属の青年にネママイア神霊との面会を頼んだ。
「お待ちください」
しら~とした生気の欠片も感じない眷属に、ポフィはちゃんとユンカナイに会わせてくれるのか? その前に、こうして着いた事を知らせてくれるのか? 少し不安を感じる。神秘的だけど親しみ易いヒヤシンス神殿とは大違いだと、ポフィが内心で愚痴っていると、トギも気に入らないと同意する。
「まぁ、ここでなら大きな声でユンカナイを呼べば、聞こえるだろう」
トギがそれでは礼儀作法がなっていないと思われると、ヒヤシンス神殿のワノトギとしての品格を持った言動について説教をし始めた時、前に森で会った眷属のムヨッサが現れた。
「あれっ、ムヨッサさん、覚えていますか? 忘れちゃったかな、ポフィカントです。ユンカナイに会いに来ました」
ムヨッサは、勿論ポフィを覚えていた。しかし、神霊に会わせて良いものか、一瞬躊躇したので、反応が遅れたのだ。
「大きくなられましたね」
「そりゃ、あれから十年もたつからね。もっと早く来たかったけど、遠いからねぇ」
相変わらず人懐こい笑顔だが、少年は立派な青年に成長していた。ムヨッサは、神霊や眷属は年を取らないし、容貌も器になった瞬間に変節したまま変わらないので、ポフィの成長が眩しく感じた。そして、若い神霊に会わせて良いものだろうか? と、老婆心を働かせたのだ。
しかし、既に眷属がポフィの到来を神霊に告げているし、ムヨッサは案内を命じられている。
「こちらです」と神霊の部屋の前までポフィを導きながら、ワノトギは結婚できるのだと、神霊や眷属との差が、この人懐こい笑顔の青年に影響を及ぼさないか案じる。
木のビーズのカーテンの手前でムヨッサは跪く。ポフィは、相変わらずロウレンティアの神殿は隔たりがあるなぁと、親しみやすいヒヤシンス神殿と比べてしまったが、『郷に入りては郷に従え』とか『だから、ロウレンティアの神殿になぞ来なければ良かったのだ』とかのトギの説教・愚痴が始まる前に、ムヨッサの横に跪く。
「神霊様、ヒヤシンス神殿のワノトギ、ポフィカントが訪ねて来ました」
ムヨッサが告げると同時に、神霊が木のビーズのカーテンをかきあげて、二人の前に出向く。
「ポフィ! 本当に来てくれたのね!」
神霊がこうして眷属以外に顔を見せることは稀だが、幼なじみの訪問に興奮している姿にヨムッサは微笑む。
「ナイちゃん、遅くなってごめんね」
ユンカナイと呼ばれるのは、十年ぶりだと神霊は心が躍る。
「さあ、お茶でも……。まぁ、ポフィは背が高くなったのね」
客間に案内しながら、神霊は自分を見下ろす視線に驚く。自らの時間は神霊ネママイアの器になった時から止まっているから忘れがちだが、十年で少年から青年になったのだ。
「ナイちゃんは、前も綺麗だったけど、今も記憶よりも百万倍綺麗だよ」
ポフィの口が上手いのは幼かった頃から同じだと、ユンカナイも幼い時と同じように恥ずかしがって頬を染める。
「ポフィは変わったけど、変わらないわね」
「えぇ~! 外見だけじゃなく、中身も結構成長しているつもりなんだけどさぁ。ナイちゃんが綺麗なのを正直に賛美しただけだよ。ナイちゃんのオーキッドの花みたいな薄紫色の髪もすっごく素敵だね! 口元のほくろは色っぽいし、白磁みたいな肌も極上。女神もかくや……あ、実際に神霊なんだから女神さまだね!」
前に訪れた時と同じ賛辞に、ユンカナイは声を出して笑う。お茶を用意してきたムヨッサは、銀の鈴を転がすような心地よい笑い声に驚く。
「あっ! 本当はナイちゃんにお土産を持ってこようとしたんだけど、マスカダインは見つからなかったんだ。ムヨッサさんが採った後だったのかな?」
遠来の客であるポフィの前にお茶と茶菓を、そして二人で食べながら話したいだろうと神霊が唯一口にできるマスカダインを器に盛ってムヨッサが用意してきた。ポフィがマスカダインをムヨッサが採り尽くした後だったんだと愚痴るのを、ユンカナイは制する。
「まぁ、お土産なんて良いのよ。こうして会いに来てくれただけで嬉しいわ」
「でへへ……そんな嬉しい事を言われたら、山登りの苦労も吹っ飛んじゃうよ」
ムヨッサは、どうやら神霊と若いワノトギを二人っきりにしても大丈夫そうだと安心して客間を後にする。
ポフィの故郷の話は、ユンカナイには懐かしい人間だった頃を思い出させ、口にはださなかった変化をも悟らせた。それにポフィからは、涼しげなフラサオ神霊の気配が前よりも強く感じる。
「ポフィは、ワノトギとして立派に勤めているのね」
「まぁね。前にナイちゃんを訪ねた頃は、故郷の村への恩返ししか生きる目標はなかったんだけど、成長したのさ!」
そんなことよりもと、ヒヤシンス地方からマスカダイン山への旅を面白おかしく話す。ユンカナイは、ポフィの失敗や、船代を節約しようと頭を使った話を笑いながら聞いたが、ポフィが前のようには長く留まれないのにも気づいた。フィンの旅は、普通の人間なら倒れてしまいそうな凄い強行軍だったのだ。
『もう子どもではないのね。きっと、ワノトギとして頼りにされているのだわ』
マスカダイン山にある人も訪れる事もかなわない真の神殿で、神霊達と眷属達と永遠に思える静かな沈滞に倦んでいるユンカナイは、賑やかなポフィが再来することは難しいだろうと察して、小さな溜め息をついた。
ポフィは、自分を頼りにするヒヤシンス地方の人々に無理を通して、遠いロウレンティアの神殿までの旅に出たのだ。故郷の村にだけ恩返ししていた子どもの頃とは違っている。だからこそ、こうしてユンカナイと会っている時間は有効に使いたい。溜め息や、これで良かったのか? という迷いで、貴重な時を無駄にはできないのだ。
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「ねえ、木に登ろう!」
二人の間に落ちた沈黙を吹き飛ばし、ポフィはユンカナイの手を取って、神殿に組み込まれている木に登る。
「良い景色だねぇ!」
二人は、山の風景に目を細め、近くの滝の音を暫し楽しむ。
「ねぇ、無理して来てくれたの?」
聞くのが怖かった質問を口にしたのは、この雄大な眺めで背中を押されたからかもしれない。
「ううん、まぁちょこっとね。長い間、留守にしないように、強行軍だったんだ。その上に最後は山登りだから、疲れたよ。でも、こうしてナイちゃんの綺麗な顔が見られて、パワー復活した!」
朗らかな笑顔が涙で霞む。神霊の器になってフラットな精神状態を保っているユンカナイが、予知夢を見る時以外に涙を流すことは稀だ。
「うわぁ~! 泣かないでよ」
慌てるポフィにユンカナイは付け込み、胸に顔を埋める。こんなに女の子っぽい策略を自分がするとはと、内心から笑いがこみ上げる。それが、ポフィには嗚咽をこらえているように思えた。優しくユンカナイの顔を胸から上げさせると、そっと唇にキスをする。
「何をするの……」
驚いて目をまん丸にしたユンカナイに、ポフィは慌てて言い訳をする。
「ごめんね! でも、効果はバッチリだね。泣いている女の子を、泣き止ませるにはキスしかないと、お父さんが教えてくれたんだ」
ピシャン! とポフィの頬をユンカナイは平手打ちする。
「ポフィの馬鹿! ファーストキスなのに、女の子を泣き止ませる為だからなんて……」
ポフィは、木から飛び下りようとするユンカナイを抱きしめて謝る。
「ごめん! ユンカナイが綺麗すぎるから、その笑顔を目に焼き付けておきたかったんだ。今度、いつ来られるか分からないから」
人ではない神霊と、神霊の欠片を譲り受けたトギを身に宿すワノトギでは時間の流れが違う。それにヒヤシンス神殿のワノトギとして、そうそう遠いロウレンティア神殿までは来られないのは明白な事実だ。二人は喧嘩を止めて、夕日が沈むまで木の上で過ごした。
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「さっ! ナイちゃん飛び下りて!」
ユンカナイは、木の上にずっと居たいと思ったが、先に飛び下りたポフィが困った顔で見上げているのを見ると、プッと吹きだしたくなる。しかし、グッと我慢して悲しそうな顔をする。
「また、ユンカナイと名前を呼びに来るからさぁ~! 下りてよ~」
「約束よ!」と叫ぶと、ユンカナイはポフィの腕の中にジャンプする。
「いつになるか分からないけど、きっと会いに来るよ」
二人は、いつ果たされるか分からない約束の証文としてキスを交わすと、手を繋いで夕闇に沈む神殿に戻った。
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永遠にユンカナイの心には、人懐こい笑顔が刻みつけられた。そして、長年にわたりネママイア神霊の器としての勤めを果たし、新しい神霊の器と代替わりを無事に終えたユンカナイの身体は砂のように崩れ落ちた。
そして、その輝ける魂が愛しいマスカダイン島の大地に溶け込む瞬間、幼なじみの少年の存在を微かに感じたのだった。
「ユンカナイ!」
「ポフィ! ずっと待っていたの!」
終わり
梨香/作