Muscadine Chronicles
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あれは十五年前の秋、サオ・ルア(秋のひとつき)からフド・ルア(秋のふた月)にさしかかる時であつた。
私はマスカダイン島の北にあるオレア島に滞在してゐた。
私が神官への夢を諦めてコトトキとしての道を歩み出してから、はや一年が経とふとしてゐた。
私は、人の三倍は勉学に励んだが、神官になるには今ひとつ怜悧さが足りなかつたのである。
また、持つて生まれた霊力はトギやナトギの存在をわづかながら感じる程度の感応力しかなかつた。
己の力量を把握しながら、夢を諦めきれずにロウレンテイア神殿の神官登用試験を受け続けた結果は七回もの落選であつた。いづれも一次にさえかすりもせずに。
そんな私のやうな神官への道に夢破れた者の多くのなれの果ては「コトトキ」であつた。
民に神霊の大いなる力と恵みを語り、祭時には司を引き受け、時には人々の指南役相談役にも応じるコトトキ――は、神官には及ばないものの、人々から歓迎され敬はれる存在だとロウレンテイア人である私は疑ひもなく信じてゐた。
それは間違ひであつたと思ひ知らされたのは、若さゆゑの奢りと冒険心から、故郷以外の地へ赴いたときである。
現実を知つた私は、逃げるやうにその地を去り、素朴なオレア島へと来たのであつた。
大集落と違つてのんびりとした離島の世界ではコトトキは尊敬の対象でもあり、親しみやすい存在でもあるらしかつた。私は今までとは隨分と違ふその状況に大いに驚きながらも、気安く話しかけてくる島民に愛着がわいた。
島の人間とも徐々に慣れ、世間話もするやうになつたその頃である。
一人の漆黒の髪の女がオレア島に現れた。
その女、着てゐる服はみすぼらしく、覗いてゐる肌も汚れて真つ黒で、獣のやうな臭いを放つていた。
たゞ二つの黒目がちな大きな目がビカリと強く光つてゐた。
島に訪れた乞食そのものの女の正体に、私だけは気づき、衝撃を受けた。
なぜなら、私のなけなしの感応力で察知したその女の真の姿は。
トギを宿す稀人、ワノトギだつたからである。
「コトトキのライズリ様。貴方は彷徨(さまよ)へる悪霊をご存知か」
およそワノトギとは思へない女は、私を見るなりさう口を開いた。
* * * * *
女の名はアガニと云つた。
あまりにも酷い有り体に、私は女に湯浴みをすゝめ、村人に頼んで衣服を用意させた。
真つ黒な垢を落とすと、意外にも白くきめ細やかな肌が現れ、女はたちまち美しくなつた。身体に沿う女物の服は、それまで着てゐた服と異なり、女の身体の凹凸を浮き彫らせた。
女――アガニは大層な美形であつた。
歳は私より二つ上の二十八だといふ。
アガニの本来の姿を目にした私は、激しく緊張した。
私は過去に、少年時特有の潔癖さと偏見で、卑しくも神官を志すならば女性にうつつを抜かしてはいけない、との誓ひをたててゐた。
妙齢の美しい女性と空間を共にする――ましてや、会話を頻繁に交はす経験などそれまでなかつたのである。
つまるところ、アガニはそれほどまでに魅力的な女性であつたのだ。
出自やこちらに来た理由などを問ふとアガニは、
「 私はダフヲデイル出身で、私の子供を奪つた悪霊を追つて来ました」
と答へた。
どう云ふ意味か分からない、詳しく話してほしいと私が乞ふとアガニは語りだした。
ダフヲデイルの小集落出身のアガニは十七歳でワノトギとなつたが、生まれついての霊力は少なく、ワノトギとしての能力は格下だつたやうである。格下であらうとワノトギについての役割を求められることは変はりなく、アガニは悪霊が現れるたびに自らの身体に悪霊を憑かせ滅してゐた。
三年前、アガニは悪霊を滅するのに失敗し、悪霊を逃した。その際、悪霊は彼女が宿してゐた胎内の赤子の生命を吸収してしまつたのだといふ。
その悪霊は滅する途中で逃げた為、通常の悪霊と異なり、人に憑かうとせず「彷徨へる悪霊」となつたのださうだ。
その後すぐ、アガニは抜け殻となつた赤子を死産した。
直ちに悪霊の後を追いたかつたのはやまやまだつたが、ときに疫病が流行つており、死霊悪霊が次々と出現したのと、彼女の家族も病に侵された為、身動きがとれなかつたのだといふ。数か月前に家族が死に、責務を果たした彼女はやうやく目的の悪霊を探す旅に出たのだつた。
「それは気の毒に」
私は心からさう述べた。
そして自らの出自も告白した。
実は私の母も、アガニと同じ「ワノトギ」であつた。母も霊力は弱く、優れたワノトギとは云へなかつた。
それゆゑ母は私が八つの時、悪霊を滅する際に故人となつた。
「貴方のお母様は幸せだつたのね」
アガニは私の顔をよくよく見て、さう告げた。
それは、どう云ふ意味であつたのか。
ワノトギが所帯を持つことは稀とされていた。
寿命が五十年近く延びるワノトギは、愛するものと時間の流れが異なる。また、畏怖の対象として異性から敬遠されることが多い。
そのやうな存在でありながら私といふ子まで成した母のことを幸せな女であつた、とアガニは云つていたのだらうか。
子供と共に逃げた悪霊の行方を追ふため、アガニはヒヤシンス地方にゐる透視能力を持つたワノトギのところへ行つたのださうだ。そして、悪霊が離島のオレア島にゐることを突き止めたらしい。
ヒヤシンス。
さう呟いた私の顔を見て、
「彼方を訪れたことがおありですか?」
とアガニは聞いた。
ええ、少しだけ。
さう答へた私の顔を見て、アガニは片眉と口の片端を上げる表情をした。
ヒヤシンス地方の人間がロウレンテイアの人間を厭う傾向があることは皆の知るところである。アガニと同じダフヲデイルの人間にもその傾向はあるが。
私はすぐに顔に出る性質であつた。
アガニは私の心情を察したのか、それ以上聞いてくることはなかつた。
そして私はアガニの求める悪霊捜しに協力することとなつたのである。
* * * * *
実は私はオレア島へ来たときに、ある気配を感じてゐた。
今まで感じてきたトギともナトギとも違ふ存在である。
それは邪悪さを帯びた存在ではなかつた。
離島には離島の変わつたナトギが存在するのかもしれない。さういふ楽天的な考へで私はその存在を無視してゐたのだ。
「その存在を感じる場所へ私を連れて行つてください」
アガニに乞はれ、私はアガニと連れ立つて直ちにその場所へと赴いた。
オレア島の岬には島民たちが建てた素朴な神殿があつた。石を組み立てた神殿のその奥の山道を登つていくと、小さな祠があつた。
私はその場所に変はつた存在を感じてゐたのだ。
島民の主な信仰対象はナトギであつた。
人口が少ないせいか、この島では死霊が人に憑く例は無きに等しい。トギや神霊を頼る生活はしてをらず、島民が自然そのものであるナトギに重きを置くのは当然と云へた。
私はその生活こそが本来の人の生き方ではないかと思ひ始めてゐた。
祠への道すがら私がさう語ると、アガニも片眉と口の片端をあげて私に同意した。
アガニの出身であるダフヲデイルは神霊の加護なしに長年発展してきた地域である。
祠へと山道を進むにつれ、アガニの頬に緊張が走つた。
あのときの悪霊で間違ひない、とアガニは云つた。
「子供を感じます」
「分かるのですか」
母親ですから、とアガニは答へた。
件の悪霊は、元は幼き子供がゐる母親の死霊で生前はアガニと顔見知りだつたといふ。
祠が目に見えてきたとき、私自身も悪霊の気を強く感じた。悪霊は私たちの存在に気付き、明らかに反応してゐた。
『コナイデ、コナイデ、ココニイサセテ』
私は初めて聞いたその「声」に吃驚仰天した。
私は気配を感知するだけで、それまでトギや死霊等の声を聞いたことはなかつたからである。
『コナイデ、コノコトイサセテ、コナイデ』
祠の後ろから靄がわき起こつた。
悪霊は黒色、死霊は白色をしてゐるものだが、その彷徨へる悪霊は不思議な色をしてゐた。淡い灰色でありながら光沢があり、ややもすると銀色にも見えた。
その悪霊はゆらゆらと儚げに搖らめくだけで私には無害に感じた。
『コノコトイサセテ、コノコトイサセテ』
「私の子を返して、ホナミ」
アガニは一歩前に出て、それに向かつて語りかけた。
「それは私の子よ。あなたの子ぢぁない。……あなたが私に憑いたとき、あなたを感じたわ。あなた、残した子供が心配でせうがなかつた。子供が愛しくてたまらなかつた。だから私の子を取り込んでしまつた」
アガニの身体の周りが柔らかな紫色に変化し始めた。私はそれが彼女がトギに身体を明け渡さうとしてゐるのだと理解した。
「あなたを許しはしないけど、あなたの気持ちは分かるわ。同じ母親だもの。あなたも私の気持ちを分かつてくれるはずよ。だから、返して。……あなたの子は元気よ。あの年、あなたを含め、多くの皆が疫病で死んだわ。でも、あなたの子は生き残つた。今でも元気に走つてゐる」
彼女――アガニが代はつたのを私は感じた。
トギが彼女自身に乗り移つたのだ。
彼女を中心にして風が舞ひ起こり、私は舞ひ上がつた土埃に思わず目を閉ぢた。
彼女は搖らめく灰色の靄に手を伸ばす。灰色の靄はたちどころに彼女に吸ひ込まれた。
『ふう、手間をかけさせおつて。はた迷惑な悪霊であつたことよ』
アガニ、いやトギはさう云ふなり、地面に膝をついた。私はあわてて彼女を支へた。
彼女は私の腕の中で苦しさうに私を見上げた。
『……アガニはこれから此の悪霊を滅するにあたり、数日、苦痛に苛まれる。男、アガニの世話を頼むぞ』
トギの言葉に私は頷くしかなかつた。
『かわいさうなアガニよ。霊力が低いながらも私が憑いたせいでワノトギとなつてしまつた……おお、なんと! 』
トギの顔が突然輝いた。
『子供の霊はあの頃のまゝ、元気で居るではないか! なんと! なんと! これは一計、案じることができるやもしれぬな』
自分の身体を抱くやうにしてはしゃいだ声を上げ、笑みを浮かべたトギは、見下ろしてゐた私の顔をはたと見た。
『……お前か』
途端に不快さうにトギは眉をひそめた。
そこまでが限界だつたのだらう。
次の瞬間、ガクリと脱力して私に身体を預けた。
* * * * *
それから三日、アガニは臥した。
私は、額に汗滲ませ歯を食いしばつて苦痛に耐えるアガニのその手を握り、声をかけ汗を拭き水を飲ませてやつた。
そんなことしか出来ぬ自分をもどかしく感じた。
それが三日目の晩、アガニはそれまでの痛みが嘘のやうにケロリと臥所《ふしど》から起き上がつたのだつた。
この苦痛は治《おさま》る時は突然に治るものなのか。驚く私の前で用意した食事をさも美味しさうに平らげたアガニに、私の心は安らひだ。
食後の茶を飲みながらアガニは窓から見える月を眺めてゐたが、やがて口を開いた。
「ライズリ様。今夜は月齢が良い。子を成すのに絶好の日よりです」
それは残念です、次の月までに貴方がご主人のところへ戻れると良いのだが、と述べた私にアガニは奇妙な顔をした。
「私の主人はとふに病で亡くなつたとあなたにお話ししませんでしたか」
それはお気の毒に。では、懇意にしてをられる男性のもとへ一日も早く戻られるやうお祈り申し上げます。
さう告げた私にアガニはますます奇妙な顔をした。
「ライズリ様。貴方にその相手をつとめていたゞきたいと申し上げてゐるのです」
それを聞いた私の衝撃は如何なるばかりか。
わア、わア、私はア、貞潔の誓ひイをたててをりイますウ、と頬を紅潮させ声高に主張した私をアガニはよくよく見つめた。
そのあまりにも大きく美しい黒目がちの目は、若かつた私の意志を溶かすのに十分であつた。
――その夜は、私の人生において最良の夜であり、また背徳的な夜であつたと云はう。
「貴方はとても可愛いわ」
私の下でアガニは何度も私にさう囁いた。
「貴方が悪霊になつた時は、私が喰らつてあげます」
男女の睦言とは本当は如何なるものか此の私に知る由もないが、アガニの言葉はそれとはかけ離れた言葉だつたと思ふ。
しかし私は彼女の腕に抱かれ胸に顔を埋めながらその言葉を聞き、此世のものとは思へぬ甘さと温かな包容に陶酔したのであつた。私は、私の母をアガニに見出してゐたかもしれぬ。
その後、行為が終はるや否や早々に自らの寝所へと戻つていつたアガニに、女とは、いや母とはかういふものであるのかと淋しさを覚えたのはさておき。
翌日、アガニは再び臥した。
その様子に私は、昨夜のアガニはトギだつたのではないかと疑つた。
トギがワノトギの身体を乗つ取ることは可能である。後日、その負担ゆゑにワノトギは寝込むことになるといふ。トギなら何ゆゑそのやうな行動に出たのだらうかといふ疑問は残るが。
アガニはそれからその夜のことが無かつたかのやうに私と接した。私もアガニにその真偽を確かめやうとしなかつた。
私は信じたかつたのである。あれが、アガニ自身であつたと。
釈然としない思ひを内に秘め、私は全快したアガニと別れた。――
――それから本土に戻り、各地を放浪したのち。
再びオレア島に来た私はここで永住することに決めた。島民も私を歓迎してくれた。
緩やかな島の時間が流れ、回想録を記してからさらに数年が経とふとしてゐたときである。
上等の衣に身を包んだ漆黒の髮の美しい青年が私の前に現れた。
青年はワノトギであつた。
* * * * *
「コトトキ、ライズリ様。いつぞやは、私の母アガニがお世話になつたと聞いております」
顔を伏せてさう云ふ青年の片眉と口の片端が上がつてゐるのを見て、私は直感した。
この青年は、全てを知つてゐるのだと。
凍りついたやうに門口で立ち尽くす私に、ある「声」が頭の中へと直接的に飛び込んできた。
『おい、ヨシユア。勿体ぶらずにさつさと教えてやれヨ』
その声に反応した私の様子に、目の前の青年は目を見開いた。
「なんと、ライズリ様。私のトギの声が聞こえるのですか」
『そりや、話が早い。流石は親父殿(おやじどの)だ』
ついで、トギの愉快さうに笑う声も聞こえる。
青年は語り出した。
自分は生まれた時から霊――自分の兄――に憑かれた赤子であつたと。神殿で試練を受け、空前絶後の零歳児にしてワノトギとなつたと。トギと自分は双子のやうに今まで育ち、他のワノトギとトギの関係をはるかに超える関係となつたと。
私は、そのときに過去のアガニのトギの思惑をやうやく理解したのだつた。
喪はれた子供をもう一度取り戻す方法。
この方法にて、アガニは二人の子供を一度に授かることとなつたのだ。
「母は去年、病で亡くなりましたが、あなたのことを最期まで気にかけておりました」
『親父殿が、罪悪感に苛まれてるんぢぁないかと思つてヨ』
「勘違ひされていたのなら申し訳ないことです。あれは母の演技でした」
『お袋自身の希望だつたんだヨ。気に入つた男の子供が欲しいといふ、ナ。後になつて恥づかしくなつてトギに乗つ取られたふりをしたんだつてヨ』
アガニの息子たちの言葉に、私は後ろめたいあの夜の思ひ出がたちまち甘やかに彩られるのを感じた。
「積もる話があります。立ち話もなんですので」
『さうさう。長旅で疲れてんだヨ、親父殿』
二人に急かされて、私はゆつくりと頷くしかなかつた。
――この人を喰つたやうな美青年こそ(私が七回にしてついぞ受かることのなかつた)ロウレンテイア神官登用試験をたつたの一回で突破し、ダフヲデイル出身でありながら、しかもワノトギとして初めて神官に就任したヨシユア神官であつた。
そののち彼は、優れた人心掌握術により大神官にまで上りつめ、また、霊力の低いワノトギや懐妊してゐるワノトギの悪霊狩りを禁止するといふ考へを各地に根付かせるなど、ワノトギの人権向上に尽力した人物となるのであるが、そんなことはそのときの私に知る由もない。
たゞ頷いて、彼を家の中に招き入れるのが私には精一杯であつたのだ。
戸を閉めるときにふと見上げた夕暮れの空には。
あの夜と同じ月齢の月が白く昇つていた。
彷徨へる悪霊〜コトトキ ライズリの回想録〜
青瓢箪/作