Muscadine Chronicles
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甲姫/作
――ねえ。楽しい?
問われた直後、こくん、と視界が上下に揺れたので「自分」はきっと頷いたのだろう。
――僕も楽しかったよ。絶対また、会いに来るからね。
人懐こい微笑みは素直な人柄をよく表していて好感が持てた。低すぎない爽やかな声、流れるような愉快な土産話。この人とならずっと話していたいと思った。
果たして彼の約束に「自分」は、どう答えたのか――
* * * * *
未来の場景を視たのに、どこか懐かしい感じがした。
うつらうつらとしながら少女は身を起こして、寝衣が僅かに濡れていることにハッとなる。その潤いの根源を辿ってみると――顎下、頬、やがては目元に行き着く。
(どうしてわたしは泣いているの)
なんてことのない、いつもの予知夢だ。それらは何の感情も抱かずに視ていいものと、ここ二年の経験でわかっている。予知夢の内容は主にこのロウレンティア地方の未来を動かしかねないものが多いが、神殿に起こりうる事態をも夢に視ることがある。よほどの大災害でもない限り、視た後に自らが心動かされることは稀だった。
記憶と未来の管理は彼女の役目であり性質である。
正確に言えば――彼女という人格の内の大きな割合を占める、神霊ネママイアという大いなる存在のそれである。そして肉体はあくまで、神霊を人の世に干渉しやすくする為に貸し出している「器」に過ぎない。このマスカダイン島の住民たちにとって最重要なのは神霊の零体と能力であって、それ以外の「彼女」の部分には興味ない。
涙を袖口で拭おうかと逡巡し、結局乾くまで放置することにした。
「誰かいますか」
少女は寝床からスッと立ち上がり、天蓋(カノピー)の半透明で繊細な織物を右手で払った。
自室には家具がほとんどなく、このベッドを除けば石造りの座椅子くらいしかない。そして自室は四方を覆われておらず、三方だけに木材で壁を組んである。
残る四つ目の面は木製ビーズを連ねたカーテン。この部屋と廊下を仕切っており、天井から大理石の床まで隙なく流れている。
「ご用向きは何でしょうか、神霊さま」
呼び声を聞きつけた、神霊の眷属の一人がすぐ外で跪いた。
向こうは部屋の主たる少女の許可なくてはカーテンの隙間に視線を差し入れることさえ許されないが、少女が外側を覗く分には何ら問題はない。
眉目秀麗の青年が頭を垂れて返答を待っているのが見えた。
「客人を迎える準備を。どうやらわたしを訪ねてどなたかいらっしゃるようです」
「かしこまりました」
眷属の者は音を立てずに去って行った。その存在感が希薄なのは、彼の奉仕の一切が意欲的ではなく機械的に行われているからであろう。
(哀れな……)
神霊の眷属とは、俗に言えば神霊の器になり損ねた者たちだ。
彼らに落ち度は無い。
代替わりの儀式に際して、降臨なされた神霊が次の器候補の肉体に馴染まなかった場合、ただちに神霊は以前の器の肉体に戻る。新たな器になり損ねた候補者は生き長らえられるが、一度神霊を身体に受け入れたため、既に普通の人間というものから変質してしまっている。
眷属は本来の寿命に加えて更に百五十年生き長らえられる代わりに、神霊の傍らを長く離れることができない。家に戻ってほどなく死ぬか、神殿にて残り寿命を使い切るかの選択を強いられてしまう。器に定まったならともかく、眷属のような半端な存在では、現世への未練を捨てられずに懊悩する者も多い。彼はその一人であった。
(でも結局のところ一番哀れなのは)
少女は物憂げに己の長い髪を指先で弄ぶ。
元々の寿命に加えておよそ二百年――それが、偶然か運命か神霊ネママイアと融合できた彼女が、これから過ごさねばならない日数であった。
融合と言っても人間であった頃の自我と記憶は残る。過去の器たちの人間だった頃の記憶もだ。幸いなことに、ほとんどの記憶は引き出しにしまわれた宝物のように、呼び出さない限りは意識を浸食することは無い。
やがて代替わりを果たした後は、意識のみが引き継がれ、器たる肉体は崩れて霧散するだけだ。
「神霊さま。お召し物を替えられますか」
青年と入れ替わりに、若い女性の眷属が現れた。
「お願いします」
少女は片手でジャラジャラとビード・カーテンを横にどけ、女性眷属の入室を促した。女性は慣れた手つきで素早く少女を脱衣させ、そして持って来た替えの服を纏わせてくれる。
胸元の開いた緩やかな青紫色のチュニックに、まず腕を通された。それから麻の編み紐を――肩回り、胸の真下に三重、腰周りに二重に巻いて結ぶ。全てにおいて眷属の女性は手際が良かった。こちらの呼吸が全く乱されないような、ほどよい結び方だった。
髪はうなじ辺りに編み込みで結い上げてもらった。ターコイズ色の大きなショールを羽織って、支度は完了だ。少女に化粧の類は必要なかった。
礼を伝えると、眷属は薄く笑って退室した。よくある、通常の朝のやり取りだった。
今日がいつも通りの日であったなら、少女はこれより他の神霊たちと通信を取って雑談をしたかもしれない。同じ建物に五柱もの神霊の器が住んでいながら、足を使って互いに顔を合わせる回数は年に数回程度しかない。神霊同士での意思疎通は、意識を向けるだけで果たせるからだ。
(クヴォニス、ミュナ、ヲン=フドワ、ユシャワティン。ロウレンティア神殿に住まう他の四柱の神霊ではなく、このわたしに名指しで会いに来るのね。誰なのかしら)
眼を閉じて、神殿の外の様子を想像してみる。
ここは岩棚と木の上と滝の中に入り混じった、複雑な構造の住処。霊界と物質界の狭間の空間にあるため、神霊の許しが無ければ踏み入ることが叶わない。ついでに言えば霊的な隔たりが無くとも――建物が周囲の環境に溶け込んで見えるゆえに、初見では素通りしかねない。
神霊ネママイアが割り当てられている空間は岩棚の一角で、神殿の入り口を見下ろせる位置にある。
少女はカーテンから反対側の壁、小さな窓の前まで歩み寄った。
坂道を上って来る人影が目に入る。まだ遠いが、気配を感じ取るには十分過ぎるほどに近い。片方はよく慣れ親しんだ、己と似た性質の存在。そして残る片方は――
――川の流れのように一途で、湖のように清涼な気配。
(涼やかな感じ……これは、フラサオの欠片)
フラサオとは、ヒヤシンス地方を加護する神霊だ。このマスカダイン山がそびえるロウレンティア地方からは、ほぼ島の反対側と形容できるほどに離れている。その神霊フラサオの「欠片」を内包している人間が会いに来るなど、珍しいこともあったものだ。
少女は躍る心音を自覚しながら、静かに座椅子に腰を下ろした。
ほどなくして先ほどの青年の眷属が客人たちを連れて戻った。
彼を下がらせた後、少女はまず、見知った方の人影に労わりの言辞を述べる。
「おかえりなさい、ムヨッサ。ご苦労だったわね。顔を上げて」
「はい、神霊さま。ただいま戻りましたよっと」
「マスカダインはあったの」
「残念ながら少ししか見つからなかったねえ。神霊さまが唯一楽しめる物質界の食べ物なのに、済まないね」
「いいの。わたしたちが島と同じ名のブドウしか食べられないのも、収穫期が終わりを迎えたのも、あなたのせいではないのよ、ムヨッサ」
少女はムヨッサという名の女性眷属と気さくに会話を交わした。互いがまだ人間であった頃からの知り合いなので――かつての少女にとっては近所のパン屋のおばさんだった――他の眷属を相手にするよりずっと気楽だ。
揺れるビーズの合間から、二つ目の人影を瞥見する。
そわそわと落ち着きのない様子の少年は、真っ直ぐな藍色の短髪が印象的だ。人間離れした不自然な髪色はおそらくフラサオの「欠片」を体内に受け入れた副作用だろう。小麦色に日焼けした肌となんとなく合っている。
「ねえ」
黙っていることに耐えかねたのか。膝を揃えた座し方を崩さぬまま、少年が勢いよく顔を上げた。ムヨッサが苦笑してたしなめる。
「こら、坊や。神霊さまのお許しはまだ出てないよ」
「うー。すみません、神霊ネママイアさま」
「構いません。わたしに会いに来たのでしょう。話を聞きますので、どうぞ頭を上げて」
「うん! ……ってこれ、こういうもんなの? 青の神殿は区切りとか無かった気がするんだけど……もしかして、全然顔見せてもらえないの」
――まただ。また、心音が跳ねている。
ヒヤシンス地方の知り合いなんて居ないはずなのに。 彼の話し方、共通語の発音や声の抑揚に、よくわからない懐かしさを覚えた。
「まあ、神霊さまがその気になれば顔を合わせられるんだけどね」
と、ムヨッサが丁寧に説明しているのが聴こえた。
衝動だった。カーテンをどけたに留まらず、少女は境界線から一歩踏み出した。
驚愕に彩られた面持ちが二つ、彼女を迎える。
「ナイちゃん!」
先に驚き終えた少年が、破顔した。今度は少女が驚く番だった。
「え――」
「ユンカナイだよね! 憶えてる!? 僕はポフィカント。すっごく昔に、アマランス地方で会ったことあるんだよ。ルルヌイ川に隣接した、ロワンザって大集落でさ! 僕は川の向こう側、ロワンザと対面してるテロロツって集落の出身なんだ。あの夏は親の商談の付き添いで一週間くらいロワンザに滞在してさ。暇な時に倉庫の中で遊んでたら、君に出逢ったんだ」
少年は一息に色々な情報を投げ出して来た。
対する少女は息を呑んだ。
(大集落ロワンザ、アマランス地方……そういえば行ったことがあったわ。わたしも誰かの付き添いで)
それより、そんなことよりも。
「ユン、カナイ」
発音してみると、舌に妙な違和感がした。馴染みある音の羅列であるはずなのに。
(そうだわ。わたしの人間としての名前は、ユンカナイだった)
器候補として初めてこの神殿に来た日から二年、生まれた時に与えられたその名で呼ばれることは一度とて無かった。顔見知りだったムヨッサも呼び方を改めている。そもそも名前とは自分で呼ぶのではなく他者に呼ばれるものであって、舌に馴染まないのも仕方ない。
「間違いないよね? はっきりと面影があるよ。いやぁ、めちゃくちゃ美人になったね! あの時はキレイな金髪だったけど、今のそのオーキッドの花みたいな薄紫色の髪もすっごく素敵だね! 口元のほくろは色っぽいし、白磁みたいな肌も極上。女神もかくや――あ、実際に神霊なんだから女神さまだね!」
「……っ、なんて恥ずかしいことを次々と言うの」
直視するのがつらくなって、ユンカナイは視線を僅かに逸らした。
視界の端では、ポフィカントと名乗った少年が人懐っこい笑みを絶えず浮かべている。十五歳前後に見える彼は、多分人間の基準で言えば美少年の分類に入る顔立ちだろう。
――俄かに、映像が脳裏を過ぎる。
引き出しが勝手に開いたのだ。未来予知に続いて記憶操作、更には記憶操作による行動操作――の能力を備えた神霊でありながら、自己の記憶管理は適当なのである。
記憶の中の自分は、暗くて冷たい場所で蹲っていた。しかし隠れている割にはその空間に恐怖は存在せず、代わりにわくわくとした期待の感情が満ちていた。見つかる瞬間への待望、或いは見つからなかった場合を予想しての達成感。
食べ物の匂いが狭い場所を取り囲む。
そんな、倉庫でのかくれんぼは突如として終わる。木箱(クレート)の蓋が開けられて、「みぃつけた」とはにかむ少年によって。
――そしてまた別の映像が浮かんだ。
かくれんぼの記憶から遡ったらしい。初めて会った時、やはり彼は容姿を惜しみなく褒めてくれたのだった。元来大人しい性格であったユンカナイは、照れるあまりに首から上が茹で上がって、大変だった。
「ポフィカント……思い出した。ほんとうに、ポフィなのね」
「そうだよー」
「ごめんなさい、あなたのことを忘れちゃってて」
「別にいいよ! 僕がワノトギになる前の、すんごい昔の話だし。僕もしばらく忘れてたよ」
彼は本気で気にしていないように、ひたすら笑っている。見ているこちらもなんだか気分が和んだ。
「神霊さま、積もる話もあるだろうから、客間に移動するかい。お客人にお茶を出すよ」
「そうするわ。ありがとう、ムヨッサ」
* * * * *
一週間、ポフィカントはロウレンティア神殿に滞在した。その間の食事と寝床の代償として、彼と彼と共に在るトギは色々と働かされたようだった。
ユンカナイは朝晩と眷属たちにこき使われている彼らから延々と愚痴を聞かされたが、全く嫌な気はしなかった。
空いた時間は談話したり、一緒に周囲を散策したり、まったりと過ごした。
(久しぶりに、こんなに身体を動かしたかも)
今日は二人で木登りをしている。と言っても、主に先に上ったポフィカントが腕力で引っ張り上げてくれる。
大きな枝に並んで腰をかけて、山の景色を見渡した。近くの滝の匂いが、水音が、穏やかさを際立たせた。
「風が気持ちいいねー」
「ええ。ヲン=フドワ配下のナトギを感じる。これから訪れる冬に向かって、勢いをつけているみたい」
空気の流れを司る神霊ヲン=フドワが住まう部屋と、この樹は繋がっている。
冷ややかな風が頬を撫でていった。頭の奥まで冴えるような風だ。
「どうしてわざわざ会いに来てくれたの? そんな大昔に一度遊んだくらいの仲で」
明日で彼はもう去ってしまうのだと思い出して、ユンカナイはぽつりと訊ねた。
振り返ったポフィカントの深い茶色の瞳が、木漏れ日に柔らかく照らされる。
「集落への恩返し以外に、特に生きる目的ってのを持ってなかったからさ。君が神霊の器になったって精霊伝いに聞いて、無性に会いたくなったんだよ」
「そうだったの」
「まだ若いのに大変だろうなって思ってね……もしも心細かったら、窮屈だったら。せめて面白い話でも聞かせてあげようって思ったんだよ」
ふふ、とユンカナイは小さく笑いを漏らした。確かに彼の話は聞いていて飽きない。この生活の退屈さを、一時であれ完全に忘れられるほどに。こちらが笑ったのを見て、ポフィカントは満足そうに頷いた。
「ナイちゃんは旅に出られないの?」
「この力を悪用したがる人が多いらしいから。神霊は全能でも、器はあくまで人間の身体。害される危険や穢れがあるから、降りられないの」
「そっかー。残念だね」
サァ、と優しい風が木の葉を揺らす。
視界が滲んだ気がした。
「……みんな、わたしのほんとうの名前を忘れちゃった」
「大丈夫。僕はずっと憶えてるから。君が望むなら何度でも呼ぶよ」
唐突にポフィカントが視界から消えた。枝の上から大胆に飛び降りたのだ。
――ユンカナイ!
地上の彼が大声で呼ばわる。吃驚して、彼女は重心の置き方を誤った。
落ちる。
恐怖はなく、高揚感が勝った。
ふわりと風のナトギに包み込まれた感覚がしたかと思えば、地面に綺麗に座り込んでいた。姿を持たない彼らに笑いながらお礼を言う。
ポフィカントが差し出す手を、迷いなく取った。
「ねえ、楽しい?」
重ねた掌は温かい。ユンカナイはゆっくりと首肯した。
「僕も楽しかったよ。絶対また、会いに来るからね」
「ありがとう。待ってるね、ポフィ」
彼女は夢の続きを――返事を、しっかりと口にする。
ワノトギとなった人間は本来の寿命に加えて五十年、神霊の器であれば本来の寿命から更に二百年生きる。
二人は同じ時間を生きられない。
それでも共に過ごせる瞬間を大切にして行こうと、ユンカナイはそう心に決めたのだった。長い長い一生にも楽しみができただけで、きっと幸せなことなのだから。
――手を取り合ったまま、笑顔で歩き出す。
<了>
登場する順番に紹介:
ユンカナイ/神霊ネママイアの器
17歳で器になる。元々は病弱で大人しい性格だった。神霊と融合してからはアンニュイ。
ネマの眷属(名前なし)
眉目秀麗の青年。神霊の器候補のち眷属に召し上げられた当時(20歳)は俗世への執着を絶てずにかなり大暴れした。自殺を試みたこともある。今は諦観が強く、性格と呼べるような性格が無いほど薄く生きている。
ネマの眷属2
若い女性。ユンを着替えさせるのがうまい。
ムヨッサ
ネマの眷属。現在の器ユンカナイとは古い知り合い。
ポフィカント
神霊フラサオ配下のワノトギ。親族は居ないが故郷の集落と仲良し。