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 つい手持ちの地図を取り出して見せた。それに対し、女性がふわりと笑って先導する。ポフィカントは嬉々としてその後ろについた。

 しかし妙である。これだけ大きな神殿なのに人の気配が薄い。

 

『ワノトギよ』

 

 廊下の燭台の緻密な造りを鑑賞していた彼に、相棒が突然話しかけた。何? と声に出さずに脳内で応える。

 

『無駄だ。この神殿に、神霊に近しい者は三人と居ない。神霊の器ではなくどれも神霊の眷属に過ぎないが、その中に神霊ネママイアと縁のある者は居ない。ついでに言うと、この女は眷属ではなく普通の人間だ』

「え? どゆこと」

 

 声に出してしまった。先を歩く神霊ミュナの従者が、怪訝そうに振り返る。

 

「ここにネママイアさまは居ないの!? そんな! 何週間も旅したのに!」

『よもや、影武者を立てていたとはな。誰にでも易々と会わせるつもりが無いのだろう。やはりナトギに伝令を頼むべきであったか』

 

 ナトギとは自然界を浮遊する姿形を持たない精霊を指す。神霊の分身でもあるため、参拝する際は前もって伝言を頼むことが可能だ。

 とはいえ別の神霊系統の精霊同士での交流はまちまちであった。ポフィカントたちはヒヤシンス地方の神霊フラサオの配下であり、他の地方のナトギと意を通わせたことはあまりない。

 

「あの! 二年前に神霊ネママイアさまのもとに馳せ参じた十六か十七歳くらいの女の子が居たでしょ。彼女に会いたいんです」

 

 名を教えると、神霊ミュナの従者は目を細めた。話の内容を噛みしめているというよりは、ポフィカントを値踏みしているような眼差しだ。

 まだ短い人生ながらも奇異の眼差しにだけは慣れている彼は、気にせずにまた声を出した。

 

「知らないかな」

「存じ上げております。その方はこちらではなく、真(まこと)の神殿におります」

「ま、真の神殿?」

「裏道を進めば真のロウレンティア神殿に行けます。幾日かかるかはわかりませんけれど、あなたさまならきっといつかは辿り着けます」

「いつかって言い方やばいね。何ヶ月もかかるの」

 

 早馬であれば一月ちょっとで島の全土を駆け巡られると言う。しかしあくまでそれは海岸を伝った場合であって、険しい地形のことは計算に入らない。

 女性はただ首を傾げて笑うだけだ。

 

『信用ならぬな。何故急に真実を話す気になったのだ』

「どうしていきなり教えてくれる気になったの」

 

 トギに倣い、ポフィカントは疑問を口にした。

 

「神霊の『欠片』が見えましたから。あなたさまは、ワノトギなのですね。お付きのトギさまとは波長が合わず声を聴くことが私にはできませんけれど、あなたさまが神霊と縁深いことは明白です」

 

 彼女は踵を返す。なんとなくついて行くと、入った時とは違う出口を通って外に出た。

 

「森を真っ直ぐ突き進んで、お行きなさい」

 

 外はどっぷりと暗くなっているのに、彼女は追い出すように告げる。

 軽く礼を言ってポフィカントはさっさと神殿を後にした。彼はふざけがちだが、見るべきものはちゃんと見ている。ロウレンティアが外部の人間に友好的でないのは知れたこと——神霊ミュナの従者は、口と目が全く別の意図を綴っていた。

 森を真っ直ぐ突き進むのは簡単そうだ。先人たちの足跡によって敷かれた道がある。

 星明かりは木々の間までは浸透しない。頼れるのはトギのみ——

 

『時に、ポフィよ』

「え。どしたの、名前で呼ぶなんて珍しいね」

『森を突っ切った先には狼の群れが』

 

 相棒の深刻な警告に、ポフィカントは「うえっ」と喉を鳴らした。

 

「じゃあどうすりゃいいのー」

『不確定だが斜めに逸れたところに霊的な気配が……』

「行ってみる」

 

 結論を急ぐな、だからもっと慎重に生きろ、の警告は聴こえないことにして。

 ポフィカントの霊的な存在を感知する才能は比較的弱いが、皆無ではない。トギの指示と合わせてそれを頼りにし、ついには目標物を見つけられた。

 相手もこちらを感知したのだろう。籠を背負ってしゃがんでいた三十から四十歳くらいの女性は、落ち着いた様子で立ち上がり、松明を掲げた。

 

「何してるのおばさん」

 

 大変失礼な物言いだという自覚はあるが、こう見えても切羽詰まっているので、省みる余裕が無い。

 微かな霊的な気配の発生源は間違いなくこの女性だ。

 

「まだ収穫できそうなマスカダインを探してるんだ」

 

 女性は大して気にした様子も無く、しれっと答えた。

 こんな夜に収穫か、事情がありそうだな、とポフィカントは直感した。

 

「マスカダインは皮が分厚いから、寒さに強くて普通のブドウよりも長く収穫できるんだよね、確か」

「その通りだよ、坊や」

「ふうん。ねえ単刀直入に訊くけど、ロウレンティア神殿の行き方知らない?」

「ほお。どうして神殿に」

「とある女の子に会いたいんだ」

「これまたどうして、その娘に会いたいんだい」

 

 女性は力強い声音で問う。

 一瞬ポフィカントは気圧された。生唾を呑み込んで、どうしたものかとひと思案する。

 終始トギが黙り込んでいるということは、おそらくこの女性はただ者では無いはずだ。覚悟を決めて、女性に詳細を話した。

 聞き終えた女性は、顎に手を当てて視線を彷徨わせる。

 

「坊やに、お願いがある」

「僕に?」

 

 とりあえず訊き返した。

 

「少しでいいから雨を降らせてくれんか」

 

 そう言われて、ポフィカントはつい左腕にある神霊フラサオの「欠片」に視線を下ろした。この燐光は神霊と近しい者にしか見えない。性質までわかるとなると、彼女は益々ただの霊感の強い人間の域を逸してそうだ。

 

「いいよ」

 

 承諾する。この時になってもトギは何も言わずに素直に力を貸してくれた。

 ポフィカントは慣れた動作で左腕を天に掲げた。雨を降らせると言うのは雨雲を動かすことではなく、「欠片」の力で水を発生させて周囲に散らすことだ。

 故郷のテロロツの集落では幾度となく繰り返してきた行為である。集落民にはかつて死霊に憑かれた際に助けてもらった大恩があるので、彼らが望むならいくらでもこの力で大地を潤わせることにしている。

 腕から靄のようなゆらめきが立ちのぼる。その軌道を目で辿ると、次第に純度の高い水滴が辺りに降り注いだ。

 枝葉が、幹が、土が、石が——おもむろに濡れていく。

 しばらくして、ポフィカントは目を疑うこととなる。

 

(僕らは水を降らせただけなのに)

 

 森の中は別世界のように美しかった。

 視界の中を光の帯が浮遊し、慈しむように木々の間をすり抜けては、ポフィカントと女性の間をも巡っていく。枯れかけの草木についた滴が、キラキラと刹那的に輝く。その光景は夜伽に語られる物語のような、幻想に溢れていた。

 女性はくすりと笑った。光の帯は周囲のナトギが雨に喜んでいるからだよと彼女は説明した。どうやらこの地域はしばらくの間、潤いに欠けていたらしい。

 

「ありがとう坊や、そして坊やのトギさま。あたしはムヨッサってんだ。滅多なことが無いと紫の神殿に余所者は入れられない決まりなんだけど、坊やはこの地に水を恵んでくれたから、これで恩人だ。招き入れても誰も文句は言えないね」

 

 彼女の企みを知って、ポフィカントは口角を吊り上げた。

 

「おばさん——じゃない、ムヨッサさん、なかなかやるじゃん。こっちこそ口実作ってくれてありがとう。僕はポフィカント。ポフィでいいよ」

「ああ、では行こうか、ポフィ。真のロウレンティア神殿へ」

 

 

 

​<了>​
 

登場する順番に紹介:

ポフィカント

 やんちゃボーイだが根は現実主義。なんかうるさい。愚痴っぽいが、根気強い。

 

ポフィのトギ

 説教保護者系。古い霊がポフィの身内を取り込んで憑いた感じで自分がかつて何者だったかはもはや忘れている&どうでもいい。

 

神霊ミュナの従者(名前なし)

 ふんわりショートボブのお姉さん。ポフィがワノトギであることに気付いて、本物の神殿のことを教えるが、正しい道は教えてあげない。

 

ムヨッサ

 神霊たちが唯一口にできる物質界の食べ物、マスカダイン系のブドウを探し求めていた。

 まだ見ぬ愛(いと)し子よ、君に逢えるのを心待ちにしている。

 君がどのような足跡を刻んでゆくのか、どのような試練に出会い、成長するのか。どのように世界を変えてゆくのか。これから見守れる悦びが、君にわかるだろうか。

 此処は良い島だ。きっと君も気に入ってくれる。

 どんな場所かと言うと——ああいや、先に教えてしまっては楽しみが減ってしまうな。自分の五感で確かめるといい。そしてできれば君にもこの世界を愛してほしい。

 さあ目を覚ましておくれ。はやく声を聞かせておくれ。

 

 愛し子よ、力の限り叫びたまえ。

 

 ——わたしはここにいる、と——


 

     * * * * *


 

 山歩きって大変なんだな——ぼやいたところでどうしようもない感想を、少年は重い息と一緒に吐き出した。少し冷えて来たのか、吐いた息が微かに白い。

 澄んだ空気を一杯吸い込んでから、ため息をつく。

 

「今日もダメかな……」

 

 陽が傾いた時刻になってもまだまだ目的の地に辿り着ける気がしない。

 少年は何度か大地を踏みしめて足元が安定していることを確認すると、くるりと前後反転した。

 夕日の茜色が限りない空から降り注ぐ光景を眺めるのは、これで何度目だろうか。絶景ではあるが回を重ねるごとに以前ほど感動できなくなっていた。もはや、麓に栄えるここロウレンティア地方の大集落がひとつ、リュオンの民家も豆粒程度の大きさに見える。

 少年は幾日にも渡って登山をしていた。平地、それも人口の多い大集落で人生の大半を過ごしてきた彼にとっては、ここ数日の行進はある種の拷問だった。

 最初こそは山道ですれ違う人も居たものだ。高度が上がれば上がるほど人気が無くなり、とうとう人恋しさのあまりに、用も無いのに独り言を漏らすようになった。

 

「あー、疲れたー! つまんないー!」

 

 叫んでみた。

 すると唐突な音に吃驚した大烏が、ガアガアと迷惑そうに鳴きながら飛び散る。

 

「……体力の無駄だね、やめよう」

 

 少年は現実主義であった。

 荷物が少ないことと、自身の持ち前の身体能力が救いだ。服も旅装らしく、秋の夜に備えて革のベストと山羊の毛糸で編まれた外套を着込み、険しい道に備えて膝丈のブーツを履いている。

 今一度、進むべき方向を向き直る。

 この方向であっているのか疑問に思えて来ている。

 目標の輪郭は遠目にもよく見える。辿り着けないのは道らしい道が曲がりくねっているのが悪いのだ、きっとそうだ——とひとりで頷いて自身を納得させる。

 再び歩き出して間もない頃、少年は何やら喉が渇いて来た。背負っているサックの中に水筒らしきものはあるが、中身は空なのは知れたことだ。

 前腕の肘の付け根を見下ろして、ぼんやりと青い燐光を帯びている箇所に声をかける。

 

「ちょっと力を貸してよ、『トギ』」

 

 燐光がより濃い水色となって応じた。その返答はまるで頭の中に響くようで、言語である必要すらないような、直接的な「意思」として受信される。

 

『なにかな、ワノトギ』

 

 それは少年とその霊的存在の切っても切れぬ間柄があってこそ成立する、特別な呼び名——。

 

「トギ、起きてたんならなんとか言ってよ。心細くて気が狂いそうだったんだよ、僕」

 

 少年は拗ねた顔で訴えた。相手は実体を持たないが、自我と視覚はある。

 

『ワノトギよ、用向きも無いのに呼びつけられる身にもなってみたまえ。汝(うぬ)の退屈など知らぬよ』

「あ、用ならあるって! 飲み水出して! ください!」

『吾(われ)を井戸か何かと勘違いしてはいまいな。このマスカダイン島を護りたもう大いなる神霊が一柱、水と氷を司る尊き神霊フラサオより吾々が預かっている、<欠片>を軽々しく使いすぎるな』

 

 呼び出したばかりで早々に説教し出した実体なき相棒に、少年はうんざりした。

 確かにこちらにも非がある。水筒を補充せずに特殊能力に頼ろうとしたのは、軽率であった。

 当然と言えば当然、少年がこの相棒と運命を共にするようになったのは齢八歳の頃だ。彼がトギと呼ぶ霊は水の神霊の恩恵を受けている。既に七年以上も生活の一部として受け入れていれば、あらゆる習慣に組み込まれてしまうものだ。

 

「おねがいー」

『まったく、汝はどうしようもないな』

 

 ぶつくさ言うトギ。それでも神霊に授かった「欠片」が発動されたのがわかった。

 ひんやりとした感覚が左手の付け根から手首を伝い、やがて指先から透き通った水が流れ出(い)でた。それがちょうどいい具合に掌に垂れるように指を折り曲げ、掌に溜まった水を啜った。

 うまい。口の中や喉が潤い、常温より少し冷たいくらいの水は優しく胃に染み渡っては四肢を元気付けてくれる。空腹感をもいくらか満たしてくれた。

 やはりこの力で得られる飲み水は格別だ。井戸や川の水とは比べるべくもない。

 

「よし! 元気が出たところでまた頑張るぞー!」

 

 少年は己を鼓舞し、さくさく歩き出す。

 あちこちにかかる影が段々と長くなっていた。本来ならば日が暮れた後は野獣が怖くて外を歩き回れないものだが、その辺りもトギ任せである。優れた感知能力で、敵意のある気配は事前に避けられるのだ。

 

『む……』

 

 しばらく道を上ったところで、腕の燐光がキラリと一瞬だけ強まった。辺りは宵闇に包まれつつあった。

 

「え、なになに何ですかトギさま、ヤバイものが近くにいるのかな。教えて—」

 

 話し相手が居ることが嬉しくて、少年は必要以上に饒舌になっている。トギの突然の唸りに、鬱陶しいくらいの勢いで食いついた。

 

『煩いぞ、ワノトギ。複数のヒトの気配がする。いや、ヒトだけでなく、神霊に近しいモノの気配もだ』

「それってもしかして、もしかしなくても! 僕らが目指してる神殿からだよね!」

 

 返事を聞く前に少年は駆け出す。

 まだそうとは決まっていないだとか、もっと慎重に生きろだとか、トギの制止の呼びかけは無視した。

 傾斜の激しい獣道を半ば四つ足で走るようにして上りきる。

 上りきった先には人の手によって整えられた空間があった。ほとんど平らにされたその場所に、広大な建物がひとつ、枯れかけた木々の間から存在を主張している。おそらく天から見下ろせば五角形——五つの巨大な角錐を通路で繋いだような形だ。

 ロウレンティア地方に恩恵を授ける神霊は五柱。それぞれの塔に御座(おわ)すのだろう。島の五つの地方の中でも、複数の神霊の加護を有している唯一の地がロウレンティアである。

 

「すごっ……こんなの初めて見るよ」

 

 少年は首を仰け反らせて建物を見上げた。角錐と言っても凄まじい数の段で形成されている。地面から五十段くらい上がったところに入り口らしい場所があり、その更に何十段も上は——小さな窓口があるが、とんでもなく高い。

 天辺の針のような形は、高すぎてよく見えない。

 

『汝は幾度となく故郷のヒヤシンス神殿を行き来しているではないか』

 

 トギは呆れたように指摘した。

 太古の時代よりマスカダイン島の五つの地方——アマランス、サンセベリア、ダフォディル、ヒヤシンス、ロウレンティア——にはひとつずつ神殿が設けられている。

 ヒヤシンス神殿は別名「沈める神殿」と呼ばれ、普段は島の最大にして最深の淡水水域であるデュモンド湖の湖底深くに眠る。純然たる祈りに呼応して浮かび上がり、霊的な現象と縁深い者にのみ視認できる仕組みだ。

 その二階建ての建物はアクアマリンと同じ透き通った薄い青色に輝き、壁や手摺りにまとわり付く水草や藻の緑と赤茶がその青によく冴える。独特な涙型の屋根が並び、左右の端の塔もそのように作られ、そして中央に立派な門と階段と灯台を据えて、下の階はアーチが彩る通路が囲む。

 水面に浮かび上がった建物からあらかた水が流れ出せば、中に踏み入れることができる。

 しかし何度少年がヒヤシンス神殿を訪れても、内部が濡れていたことは無い。まさに摩訶不思議である。

 

「全然スケールが違うじゃん」

 

 少年は行儀悪くも指を指した。

 美しく神秘的でありながらどこか親しみやすい雰囲気の青の神殿とはまるで違う。

 宵闇にそびえる目前の建築物は見る者に畏怖の念を植え付ける類のものだ。ラベンダー色に染められたレンガからは湯気が立ちのぼっているようにも見えてきた。

 そうやって呆然と立ち尽くしていたら、一番近い塔から誰かが顔を出した。

 

「参拝の方ですか。ここまでよくぞいらっしゃいました」

 

 緩やかなローブを重ねて着込んだ短髪の女性が、薄っすらと笑みを浮かべて呼びかける。

 呼ばれたからには急いで駆け寄った。

 階段を段飛ばしで駆け上がるのは行儀が悪いぞ、などとトギが言っている気もするが、無視である。

 

「僕はポフィカントって言います。ロウレンティア神殿に御座す神霊ネママイアさまにお目通り叶いたくてはるばる南西のヒヤシンス地方から来ました」

 

 姿勢を正し、歯切れ良く自己紹介をする。

 

「私は神霊ミュナさまに従う者です。まあ、そんなに遠くから、大変でしたでしょう」

「うん! このルルヌイ川に隣接したテロロツの集落からわざわざ慣れない馬車に乗って……川を渡るには橋とか舟とか……時には旅費をけちって荷馬車にのせてもらったりさ……この神殿があるマスカダイン山って、ダフォディル地方側からだとほとんど登れないって言うから、わざわざ遠回りしてアマランスとサンセベリア地方も通ったんだよ。一か月近くかかった!」

 

麗しき、その島

甲姫/作

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